2010年2月23日火曜日

信州酒蔵ツアー 再び

昨年に引き続き、今年も「信州酒蔵ツアー」に行ってまいりました。何と今年は、総勢30名以上に膨れ上がり、バスも例年のマイクロバスから大型バスへと変更になりました。

まずは伊那のみはらしファームでおそば(http://www.j-sanchoku.net/index.php?f=&ci=12479&i=13088)を食した後、前々学長宅にお邪魔して、奥様が作られたハーブ茶、燻製、お漬物を食して(食してばかりですが)、いよいよ宮島酒店(http://www.miyajima.net/)に到着しました。若社長の案内のもと、麹作りから、酵母菌によるアルコール発酵過程を見学しました。さすがに僕も3回目なので、ようやくお酒の製造過程を少し理解できるようになりました。

麹カビは要するにアミラーゼを産生して、お米のデンプンをブドウ糖にするためのものです。このお米に麹カビがまとわりついたものを麹と呼び、ここまでの過程で甘酒ができます。よって甘酒にはアルコールが含まれていません。次いで麹に酵母菌を加えて、嫌気下でブドウ糖(C6H12O6)→2エチルアルコール(C2H5OH)、2CO2、2ATPとなります。これってレーニンジャーやハーパー生化学の導入部で、学生の試験にすら出ない基本中の基本でした。ピルビン酸がTCAサイクルに入れば36ATPが産生するのでしたね。僕は生化学の教授に好かれて(!?)、計3回試験を受けてようやく通ったので、今でもよく覚えています。

その後、寒い酒蔵を離れて試飲会場へと移りました。酒造り行程を正しく理解するためには、にごり酒から大吟醸まで、しっかりと試飲するのが一番です(!?)。試飲が進むにつれ、酒造り行程はどうでもよくなり、ほどよく大脳皮質が抑制された状態でしゃぶしゃぶ屋さんに移動して試飲を続け、しんしんと夜は更けていいくにつれ、海馬の抑制も始まったのでした。

今年は若社長の感動的なお話はなく、比較的あっさりとした酒蔵ツアーでした。しかし最後の宴会に若社長も参加してくれて、多くの人達と交歓できました。来年は大型バス2台になるかも知れません。いろいろと勉強になるので、もっと沢山の教室の方の参加を期待しています。

2010年2月15日月曜日

-1℃→0℃→11℃(パート2)

日本橋までジョギングした後、みぞれ混じりの東京を発って、昼過ぎに気温11℃の快晴の高知に着きました。高知大学のY教授と一緒でした。昨日の松本―1℃、今朝の東京0℃から、いきなり11℃の世界です。うーん、日本は長い!! 

その後、Y先生に連れられ、まずは桂浜(http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/39/katsurahama.html)に行きました。僕は徳島で7歳まで過ごし、その後も10歳くらいまでの夏休みは、高知の室戸岬寄りの日和佐という町で、数週間家族で過ごすのを常としていました。そのせいか、同じく太平洋に面している桂浜は、少年時代に過ごした海と、同じ匂い同じ風景でしたね。

次に案内してもらった高知城(http://www.kochipark.jp/kochijyo/)は山城で、下から見上げるととても威風堂々と見えました。松本城と同じく、残存天守閣のあるお城の一つで、城好きには垂涎の城のようです。山内一豊の築城から、明治に至るまで代々山内家が高知を治めたようです。松本が改易などにより、藩主が何度も交代したのと対照的かも知れませんね。

高知城を見た後、ひろめ市場(http://www.hirome.co.jp/hpgen/HPB/entries/5.html)に行きましたが、市場で昼間から地元女性がお酒を飲んでいるのをみて、びっくりしました。高知では普通のことのようです。大らかな県民性ということですね。Y先生と私も少しチューハイを飲んで(ほんの少しです)、セミナーに向かいました。

セミナーでは痛みのお話をさせていただいたのですが、麻酔科に加え、基礎の先生や整形外科の先生にも沢山お越しいただき、うれしく思いました。高知の麻酔科は若い人が多く、今後楽しみな教室ですね。海の高知と山の信州で、今後、協力しながらいろいろとやっていこうと盛り上がりました。会の後は桂浜の旅館に泊めていただき、海の幸をご馳走になり、翌朝、40年以上振りに波の音を聞きながら目覚めたのでした。そして太平洋の夜明けの中、桂浜をジョギングをしながら、一面の水平線を見ました。これまた、10数年にカリフォルニアのモントレー/カーメルの砂浜から太平洋の水平線を見た時以来でしたね。モントレーから眺めた太平洋を、日本の高知側(?)から眺めているというのも、不思議な感覚でしたね。

さて、昼前に松本に帰ってきたのですが、飛行機からは、白山、富士山、仙丈、甲斐駒、穂高、槍、常念、鹿島槍、白馬までの大パノラマが、くっきりと見えました。この風景を見るためだけにも、福岡⇔信州松本の航空路は残すべきだと思います。飛行機から見ると、白山山系から南・北アルプスは地層が大きく盛り上がっており、特にFossa Magnaはやはり異常な地溝帯だと思いましたね。そしてそのFossa Magnaの麓の松本に帰ってきて、ホッとしたのですが、これもまた不思議な感覚でした。地層のうねりの大本のFossa Manaの麓に帰ってきてホッとするというのは、どういうことでしょうか。

今回、松本→東京→高知→松本と移動して、異なった気候・風土・風景から、いろいろと不思議な感覚を持ちました。海と山はやっぱり違うと思います。今後、追々検討していきたいと思いますね。

さて再度、信州大学麻酔科では秘書さん(非常勤事務員)を募集しています(http://wwwhp.md.shinshu-u.ac.jp/staff/004/)。医局員/教室員の方のご友人、ご親戚で適任の方がいらっしゃれば、応募してくださいな。宜しくお願いします。

-1℃→0℃→11℃(パート1)

先週末、気温-1℃の松本を発ち、車で上田、新幹線で東京出て、学会事務局で雑務をこなした後、お茶の水のホテルで1泊しました。翌朝6時から、気温0℃でみぞれ混じりの雨の中、凍えながらも医科歯科大の前から本郷→秋葉原→日本橋をジョギングしてホテルに帰りました。1時間程度だったので、10 kmの距離だと思います。朝6時の秋葉原はもの悲しかったですね、通り魔殺人のあった辺りを一部走りましたが、街全体が虚構って感じでした。早朝にジョギングすると、街の性格がわかる気がするね。昔いた札幌では、早朝のススキのには、やるせなさしかありませんでした。

日本橋は早朝にもかかわらず、かつて日本の中心だったという風格を感じましたね。日本橋に店を持つのは商売人の夢のはずですが、信州代表として八十二銀行も鍋林(最近、僕はここの関連会社に家を建ててもらっているのでヨイショしておきます)もちゃんと日本橋にお店がありました。江戸時代から、甲州街道は日本橋を起点として、新宿を経て信州下諏訪まで続いているのですから、信州の企業が日本橋に支店を出しているのはまぁ当然なのですが、何かちょっとホッとしましたね。僕もだんだん信州贔屓になってきました。

それでもいつも思うのですが、東京は狭いね。本郷から日本橋三越前まで、3 kmくらいしかありません。毎年、麹町のホテルに泊まると、国会議事堂から霞ヶ関、東京駅、九段下を経て、皇居をぐるっとジョギングで走るのですが、大体1時間くらいなので10 kmくらいです。これに銀座~日本橋~本郷までを入れた円を描くと、高々半径3 kmの範囲内に、日本の政治、行政、司法、商売、学問の中枢がすべて入ってしまうことになります。これって本当にいいのでしょうか。直下型の地震がきたらどうするんだろう。そもそも東大から中央官庁に入省する人達は、通学/通勤する場所が3 km南側にずれるだけだよね。これではやはり、世間知らずな官僚が増産されるだけだよね。

ただ東京のいいところは、みぞれ混じりの小雨の中、半袖半ズボンの姿でジョギングしていても誰も気に留めないことです。手の感覚が無くなりながらも、来々週の東京マラソンに出場するために練習しているふりをして、通行人の好奇の目もなくホテルまで無事に帰ってくることができました。この季節、松本市街を半袖半ズボンで走っていると、道行く人の驚愕の目に晒されるだろうね。顔も結構割れているので、翌日には教室の誰かに、どうかそんなことをしないでくれと言われるかも知れません。丁度、信州に赴任直後、学食で夕ご飯を食べているのが学生の話題になって、やんわりと教室の人に注意されたようにね。

ところで、信州大学麻酔科では秘書さん(非常勤事務員)を募集しています(http://wwwhp.md.shinshu-u.ac.jp/staff/004/)。医局員/教室員の方のご友人、ご親戚によい方がいらっしゃれば、応募してくださいな。宜しくお願いします。