京都で開催された国際生理学会(http://www.iups2009.com/jp/index.html)に行ってきました。といっても、brush upのために、痛み研究のwhole day symposiumに1日参加しただけですがね。教室の大学院生と一緒に参加したのですが、彼女が一所懸命、発表内容をノートに取っているのを見て、20年近く前の自分の姿を思い出しました。当時の私も、同じような国際シンポジウムに参加しては、討議されている内容がさっぱりわからず、飛び交うレセプタや拮抗薬の名前をノートに書き取るだけで必死でした。シンポジウムから帰って、ノートを頼りに論文を沢山読み、ようやく理解して、翌年、別の研究会に参加すると新たな概念が出ており、また必死でノートに取って...の繰り返しをしていました。
このように根本的な知識不足に加え、当時所属していた教室には新しい研究手法がありませんでした。にも係わらず、痛み研究で学位を取れと命じられており、自分のアイデアで実験を開始したものの、データの解釈ができず、自分の研究の方向性もわからず悶々としていました。素直な性格でないせいか、直属上司にも見放され(?)、研究会で見知らぬ基礎の先生方に相談しては、御迷惑をおかけしていたように思います。そういう中から、将来敬愛するようになる先生方に出会えたのですが、それはまた別のお話ですね。
今となっては、当時の自分の一所懸命さを懐かしく思い出します。時を経て、「批判的に論文を読む」ということも少しはわかるようになりました。痛みの研究の進んでいく方向性についても、ある程度予測が立つようになりました。しかし逆に、自分のデータや後輩のデータに一喜一憂することも少なくなりました。つまり、自分の仮説を100%信じておらず、常に進路の変更や撤退を考えながら、研究成果を形にするために研究をしているような感覚を持つようになりました。「これではいかーん!」と思うのですが、日常些事に忙殺された結果、研究者魂を捨てて、教室のadministratorに成り下がった自分を正当化するようになってきたのも事実です。
今回、京都の国際生理学会に参加し、僕の横で必死でノートを取っている大学院生を見ながら、僕ももう一度、彼/彼女達の必死さを共有させてもらって、一研究者として、もう少し前に進んでみたいなぁ、と思ったのでした。まぁ、こんな殊勝な態度がいつまで続くかは不明だけどね。ともかく、夏の京都は大嫌いだし、学会参加費55,000円も高かったけど、国際生理学会に来てよかったなと思いましたね。 帰りには昔よく行った天天有のラーメンも入手したし...
とにかく、教室の若者・大学院生達、頑張ってくれい。そして、あんた達のエネルギーを私にも少し分けてくれい、そうするとおじさん、もう少し頑張れそうな気がするのだから...
2009年8月4日火曜日
2009年7月29日水曜日
教授って何?
■△大学の教授選が終わりました。この教授選について大きな誤解があったようで、あちこちの人から立候補してるんでしょ? と聞かれました。強く否定しても(出ていないのだから当然否定します)、○▲先生に頼まれて書類を出したんじゃないの、などといわれる始末でした。世間は教授選に秘かな興味があるんですね。ともあれ、これを契機に教授って何だろうと考えてみました。
昔は若者は背中で教育できると思っていました。つまり、一所懸命、臨床&研究していると、人は勝手についてくると思っていたのです。でもこれって、一昔前の「頑固親父の背中をみて育てる」教育法で、つまり、初期教育の放棄なんでしょうね。昔のおやぢは、時々、ビールで酔っ払った勢いで子供を叱り付けて、子供とコミュニケーションしているつもりだったのでしょうが、実際は自分の日常の憂さ晴らしだったんでしょうね。
最近では、医局員を自分の子供と同じだと思うようになりました。つまり医局員は、「社会からの預かりもの」ということですね。だから上司達がちゃんと育てて、社会に還元するという責務を負っています。その際、もっとも重要なのが、社会人になった最初数年間の教育ではないでしょうか。なぜなら、医師はPh.D.とは異なり、科学的な思考や方法論をほとんど学ばずに、いきなり社会人(研修医)になってしまいます。ですからこの研修医時代に、科学的に考え行動するクセをつけておかないと、現状の医療に疑いを持たず、あるいは「思い込み」だけで医療を行う医師になってしまうリスクがあるからです。研修医時代にこそ、人間という複雑な対象に畏れと尊敬の念を持ち、できる限り客観的に観る(診る)姿勢を学ぶべきです。逆説的には、医師になった最初のうちに、自分達が人間について、実は何も知らないということを十分に知る必要があります(?!)。 5年前から始まった初期研修制度は、少なくともこの点については失敗で、現存の技術だけを習ったらいい医者になれるという錯覚を若者に与えてしまったように思います。
さて、何より大学教授こそが、人間は人間について何も知らないということを研修医に教える使命があると思います。なぜなら、「人間とは何か?」と問いかけ続けているのが、教授を筆頭とする大学教官で、自分達がいかに人間について知らないかを、実は一番よく知っている人達だからです。勿論、どんな人でも、人間って何なのだろうと、秘かに問いかけていると思います。しかし、教授あるいはPI(Principal Investigator:研究室の主宰者)こそが、世間に向かって照れずに(これが結構重要だと思います)「人間って何?」と問いかけることができる数少ない職業だからです。そして、こんな青臭いことを問い続ける人は、社会にとって有益性に乏しい人達なので、教授選考をして絶対数が増えないように規制されているのかも知れませんね。
それでも、世の中には「人間って何?」と問い続けないと生きていけないタイプの人が(多分)います。そんな変人が社会の片隅で、それなり尊厳を保ってに生きていくためには、教授やPIを目指すしかないのですよ。勿論、現在においても教授を目指す動機が、「偉そぶりたい」という人がいるのも事実です。しかし残念ながら、時代は変わりつつあり、すでに社会は偉そぶりたい教授を必要としていないと思いますね。それに、偉そぶるためには情報の独占化が不可欠ですが、インターネットの時代になって情報の独占は不可能ですから、白い巨塔は遠い昔となりました。
繰り返しますが、教授やPIになれば、「人間って何?」と問いかけ続けるタイプの人でも、世間から変人扱いされな いで生きていけるという利点があります。他方、教授やPIとは、結局、教育者としてご飯を食べている職業ですから、次世代の若者を教育し、鼓舞し奮起を促さなくてはなりません。しかし、若者の教育は苦労が多く責任も重い反面、大変楽しい作業でもあります。いつまでも若者から元気を貰えるしね。
だからさぁ、PIや医学部教授を目指すという、今となっては変わりものの若者が増えてくれないかと願っている訳です。水と空気の美味しい、風光明媚な地方大学のPIや教授って、案外いい職業だと思うんだけどなぁ。そんな若者が増えてくれたら、僕はとっとと引退してフリークライミングと沢登りに専念したいと考えているのですが...
昔は若者は背中で教育できると思っていました。つまり、一所懸命、臨床&研究していると、人は勝手についてくると思っていたのです。でもこれって、一昔前の「頑固親父の背中をみて育てる」教育法で、つまり、初期教育の放棄なんでしょうね。昔のおやぢは、時々、ビールで酔っ払った勢いで子供を叱り付けて、子供とコミュニケーションしているつもりだったのでしょうが、実際は自分の日常の憂さ晴らしだったんでしょうね。
最近では、医局員を自分の子供と同じだと思うようになりました。つまり医局員は、「社会からの預かりもの」ということですね。だから上司達がちゃんと育てて、社会に還元するという責務を負っています。その際、もっとも重要なのが、社会人になった最初数年間の教育ではないでしょうか。なぜなら、医師はPh.D.とは異なり、科学的な思考や方法論をほとんど学ばずに、いきなり社会人(研修医)になってしまいます。ですからこの研修医時代に、科学的に考え行動するクセをつけておかないと、現状の医療に疑いを持たず、あるいは「思い込み」だけで医療を行う医師になってしまうリスクがあるからです。研修医時代にこそ、人間という複雑な対象に畏れと尊敬の念を持ち、できる限り客観的に観る(診る)姿勢を学ぶべきです。逆説的には、医師になった最初のうちに、自分達が人間について、実は何も知らないということを十分に知る必要があります(?!)。 5年前から始まった初期研修制度は、少なくともこの点については失敗で、現存の技術だけを習ったらいい医者になれるという錯覚を若者に与えてしまったように思います。
さて、何より大学教授こそが、人間は人間について何も知らないということを研修医に教える使命があると思います。なぜなら、「人間とは何か?」と問いかけ続けているのが、教授を筆頭とする大学教官で、自分達がいかに人間について知らないかを、実は一番よく知っている人達だからです。勿論、どんな人でも、人間って何なのだろうと、秘かに問いかけていると思います。しかし、教授あるいはPI(Principal Investigator:研究室の主宰者)こそが、世間に向かって照れずに(これが結構重要だと思います)「人間って何?」と問いかけることができる数少ない職業だからです。そして、こんな青臭いことを問い続ける人は、社会にとって有益性に乏しい人達なので、教授選考をして絶対数が増えないように規制されているのかも知れませんね。
それでも、世の中には「人間って何?」と問い続けないと生きていけないタイプの人が(多分)います。そんな変人が社会の片隅で、それなり尊厳を保ってに生きていくためには、教授やPIを目指すしかないのですよ。勿論、現在においても教授を目指す動機が、「偉そぶりたい」という人がいるのも事実です。しかし残念ながら、時代は変わりつつあり、すでに社会は偉そぶりたい教授を必要としていないと思いますね。それに、偉そぶるためには情報の独占化が不可欠ですが、インターネットの時代になって情報の独占は不可能ですから、白い巨塔は遠い昔となりました。
繰り返しますが、教授やPIになれば、「人間って何?」と問いかけ続けるタイプの人でも、世間から変人扱いされな いで生きていけるという利点があります。他方、教授やPIとは、結局、教育者としてご飯を食べている職業ですから、次世代の若者を教育し、鼓舞し奮起を促さなくてはなりません。しかし、若者の教育は苦労が多く責任も重い反面、大変楽しい作業でもあります。いつまでも若者から元気を貰えるしね。
だからさぁ、PIや医学部教授を目指すという、今となっては変わりものの若者が増えてくれないかと願っている訳です。水と空気の美味しい、風光明媚な地方大学のPIや教授って、案外いい職業だと思うんだけどなぁ。そんな若者が増えてくれたら、僕はとっとと引退してフリークライミングと沢登りに専念したいと考えているのですが...
2009年7月20日月曜日
情動と認知の痛み
6月はいろいろと忙しくて、ブログの更新できなかったので、申し訳ありませんでした。
さて、ペインクリニック学会と疼痛学会合同の名古屋ペイン2009(名古屋)に行ってきました。両学会が合同に開催するようになってから、臨床と基礎の交流がうまくいくようになって、学会の雰囲気がアメリカ疼痛学会のようにオープンで、学際的になってきたように感じます。日本の疼痛治療も、ペインクリニック治療=神経ブロックという雰囲気から、痛みの機序を推定しながらinterventionや薬物療法を行う方向へと変化しつつあるように感じて、僕としてはうれしく感じます。まあ異論もあるでしょうが。
なかでも、慈恵医大生理の加藤教授が、講演の最後に仰っていた内容が興味深かったです。外敵から襲われると、その痛みや外敵の臭いを記憶し、不安、恐怖、不快といった負の情動を保持する。そうすると、二度とそうした危険が及ぶ環境に身を置かなくなり、生存確率が増えるという考え方です。つまり、情動の起源を、生体警告系に対する神経系応答(痛みの知覚面のことですね)の記憶に関連する体験として捉えようとする考え方ですね。これは新たな考え方かも知れません。この考え方では、痛みの認知面と情動面(=不快)が、記憶を介して密接に繋がっていることが容易に了解できますね。そうすればもしかしたら、逆に「快」という情動とは、進化の過程において、身の安全が確保されて、食料の心配が少なく、子孫をより残せる確立が高い環境にあった時の、記憶に関連した神経活動ということになるかも知れませんね。 この「快」の延長線上に「愛」があるのかも知れません。
15年くらい前、某大学の生理学の教授から、「21世紀は愛を生理学で解き明かす時代だよ、痛みのような原始的な感覚の解明では、いずれ時代遅れになるよ」と言われたことを覚えています。確かに加藤教授の扁桃体での素晴らしい研究を聞いていると、「快」、「不快」から、さらに「愛情」や「意識」といった問題についてまで、生理学が解き明かせる時代が、もうそう遠くはないようにも思います。冗談ではなく、本当に「愛の生理学」の時代が来ているのかも知れませんね。
さて、ペインクリニック学会と疼痛学会合同の名古屋ペイン2009(名古屋)に行ってきました。両学会が合同に開催するようになってから、臨床と基礎の交流がうまくいくようになって、学会の雰囲気がアメリカ疼痛学会のようにオープンで、学際的になってきたように感じます。日本の疼痛治療も、ペインクリニック治療=神経ブロックという雰囲気から、痛みの機序を推定しながらinterventionや薬物療法を行う方向へと変化しつつあるように感じて、僕としてはうれしく感じます。まあ異論もあるでしょうが。
なかでも、慈恵医大生理の加藤教授が、講演の最後に仰っていた内容が興味深かったです。外敵から襲われると、その痛みや外敵の臭いを記憶し、不安、恐怖、不快といった負の情動を保持する。そうすると、二度とそうした危険が及ぶ環境に身を置かなくなり、生存確率が増えるという考え方です。つまり、情動の起源を、生体警告系に対する神経系応答(痛みの知覚面のことですね)の記憶に関連する体験として捉えようとする考え方ですね。これは新たな考え方かも知れません。この考え方では、痛みの認知面と情動面(=不快)が、記憶を介して密接に繋がっていることが容易に了解できますね。そうすればもしかしたら、逆に「快」という情動とは、進化の過程において、身の安全が確保されて、食料の心配が少なく、子孫をより残せる確立が高い環境にあった時の、記憶に関連した神経活動ということになるかも知れませんね。 この「快」の延長線上に「愛」があるのかも知れません。
15年くらい前、某大学の生理学の教授から、「21世紀は愛を生理学で解き明かす時代だよ、痛みのような原始的な感覚の解明では、いずれ時代遅れになるよ」と言われたことを覚えています。確かに加藤教授の扁桃体での素晴らしい研究を聞いていると、「快」、「不快」から、さらに「愛情」や「意識」といった問題についてまで、生理学が解き明かせる時代が、もうそう遠くはないようにも思います。冗談ではなく、本当に「愛の生理学」の時代が来ているのかも知れませんね。
2009年5月26日火曜日
生命科学シンポジウムその2:ヒトはどのように特別なチンパンジーか
東大生命科学シンポジウムで面白かった二つ目の講演は、総合文化研究科の長谷川寿一教授の、「ヒトはどのように特別なチンパンジーか」でした。
ヒトは遺伝学的にはチンパンジーと最も近縁で、チンパンジーもゴリラよりヒトに近縁だそうです。果実依存性の他の類人猿とは異なり、ヒト/チンパンジーだけが肉食を行い、雄同志が絆に結ばれて集団で生活し、協同で狩りを行うなどの特徴がある。そして、(残念なことに)ヒト/チンパンジーだけで、集団間の闘争(戦争)が見られるらしい。講演の中での、チンパンジーの集団が、他グループのチンパンジーを「狩る」映像は衝撃的であった。
さて、ヒトとチンパンジーを分けるものは何か。ヒトがチンパンジー以上に認知機能が発達したのは、群れ生活における社会関係の認知と他者操作が影響したとのことで、これを社会脳仮説というらしい。この結果、ヒトは模倣、共感、他者の内面理解(マインドリーディング)、言語といった能力を獲得して、文化や文明を築き上げた。 実際、群れの大きさ(サイズ)と脳容量の間により強い相関関係があるらしい。そして、火を用いた調理と肉食によって、類人猿の伝統である果実依存性から解放され、集団生活を安定化できた。こうして、手間暇のかかる子育てを集団で協同で行なうようになり、繁殖開始年齢が遅い大きな脳を持つ子どもを、短い出産間隔で産出できるようになった。こうして、ヒトが地球上で繁栄してきたと考えられている。
こうした長谷川教授の方法論は、チンパンジーの行動観察を通して、ヒトとの共通部分と異なった部分を明確にすることで、「ヒトとは何か」というテーマに迫ろうとしているのですね。麻酔によって意識を消失させたり、痛みを抑制することで、逆に「意識とは何か」、「痛みとは何か」を知ろうとする、麻酔科学に似ているかも知れませんね。
ヒトは遺伝学的にはチンパンジーと最も近縁で、チンパンジーもゴリラよりヒトに近縁だそうです。果実依存性の他の類人猿とは異なり、ヒト/チンパンジーだけが肉食を行い、雄同志が絆に結ばれて集団で生活し、協同で狩りを行うなどの特徴がある。そして、(残念なことに)ヒト/チンパンジーだけで、集団間の闘争(戦争)が見られるらしい。講演の中での、チンパンジーの集団が、他グループのチンパンジーを「狩る」映像は衝撃的であった。
さて、ヒトとチンパンジーを分けるものは何か。ヒトがチンパンジー以上に認知機能が発達したのは、群れ生活における社会関係の認知と他者操作が影響したとのことで、これを社会脳仮説というらしい。この結果、ヒトは模倣、共感、他者の内面理解(マインドリーディング)、言語といった能力を獲得して、文化や文明を築き上げた。 実際、群れの大きさ(サイズ)と脳容量の間により強い相関関係があるらしい。そして、火を用いた調理と肉食によって、類人猿の伝統である果実依存性から解放され、集団生活を安定化できた。こうして、手間暇のかかる子育てを集団で協同で行なうようになり、繁殖開始年齢が遅い大きな脳を持つ子どもを、短い出産間隔で産出できるようになった。こうして、ヒトが地球上で繁栄してきたと考えられている。
こうした長谷川教授の方法論は、チンパンジーの行動観察を通して、ヒトとの共通部分と異なった部分を明確にすることで、「ヒトとは何か」というテーマに迫ろうとしているのですね。麻酔によって意識を消失させたり、痛みを抑制することで、逆に「意識とは何か」、「痛みとは何か」を知ろうとする、麻酔科学に似ているかも知れませんね。
2009年5月8日金曜日
生命科学シンポジウムその1:光合成
大型連休中に、東大で開催された生命科学シンポジウムに行ってきた(http://www.biout2009.info/)。東大が生命科学のネットワークを強化するため、大学院生募集を副次目的として、一般公開しているシンポジウムです。各分野の先生が20分で自分の研究成果を一般人を相手に発表するので、いろいろと勉強になった。その一つは発表の仕方ですね。
短い時間で膨大な研究成果を発表するのは、つくづく難しいと思う。語りたいことは山ほどあるだろうに、聴衆は一般人から当該分野の研究者までの多彩な層を含むため、基本的な知識に大きな差がある。こうした場合、すべて理解してもらおうと膨大なスライドを用意すると、まずは失敗するね。今回たまたま愚息(中学生)を連れて行ったのだが、彼の反応が発表の成否のバロメータになった。「中学生にも理解できるように発表しろ」というのは実に本当ですね。中学3年生の数学と理科の知識があれば、各テーマの重要性と研究の方向性は理解できるので、発表の仕方で成否が決まります。医局のASA refresher courseの発表などでも、一所懸命、文献を読み込み勉強した人が、発表の仕方で失敗しているのをよく目の当たりにする。勉強は必要条件であって十分条件ではない。十分条件には発表の仕方が加わる。それくらい、勉強にも発表方法にも時間をかけて準備しないといけないということですね。アメリカ人は、発表している自分の姿をビデオに撮って(後ろ姿まで!)、練習するからね。僕も留学中に選択した英語のクラスで、発表の練習されられたもんなあ。まだ教室の皆さんは、発表自体の重要性を認識していないように思う。
さて、いくつか面白い発表があったので、追々報告したい。今回は、植物はなぜクロロフィルという色素を光合成に使っているか、についてです。理学部植物学講座の寺島教授は、葉っぱが光合成によって光エネルギーを効率よく得ようとするならば、葉っぱは黒色(つまり光をすべて吸収する色)であるべきだと語り、聴衆の興味をぐっと引きました。愚息まで身を乗り出したもんね。そして、葉っぱの緑色は緑色光を吸収しにくいから緑色に見えるのですが、実際は、葉っぱの内部に入った緑色光は何度も屈折して、葉っぱの裏側にある海綿状組織に吸収されるので、緑色光の吸収効率は結構高いことを示しました(勿論、緑色光以外の吸収率はもっと高いのですが...)。そして、葉っぱの表面の葉緑体の光合成はすぐに光飽和してしまうので、それ以上、白色光を強めても熱エネルギーになって散逸するだけですが、緑色光だと葉っぱの裏側まで届き、まだ飽和していない葉緑体の光合成を駆動することを示しました(http://www.biol.s.u-tokyo.ac.jp/users/seitaipl/index.html)。こうして陸上植物が、クロロフィルという緑色の(つまり緑色光を吸収しにくい)色素を光合成に使うことが、光エネルギーを取り込むためには、合目的であることを証明したのでした。パチパチパチ。
光合成について考えたのは、高校生の時以来だと思うが、大変面白く、かつリフレッシュされました。しかし実は、光合成に関する現象の大半はまだ謎だらけだそうな。これを聞いて、麻酔のメカニズムが不明なことは、科学の世界において大した問題ではないと思ったね。麻酔のメカニズムより、光合成のメカニズム解明の方がどう考えても重要だもんね。光合成こそ、自然に備わった太陽光によるエネルギー発電だから、化石燃料消滅後のエネルギー獲得にもっとも重要な研究といえるもんね。
まあ、自分がやっていることをあえて矮小化する必要はないが、たまには他分野の研究を知って、自分の分野を客観視することも重要でしょうね。東大の生命科学シンポジウム、なかなか面白いぞ、来年も行こうっと。
短い時間で膨大な研究成果を発表するのは、つくづく難しいと思う。語りたいことは山ほどあるだろうに、聴衆は一般人から当該分野の研究者までの多彩な層を含むため、基本的な知識に大きな差がある。こうした場合、すべて理解してもらおうと膨大なスライドを用意すると、まずは失敗するね。今回たまたま愚息(中学生)を連れて行ったのだが、彼の反応が発表の成否のバロメータになった。「中学生にも理解できるように発表しろ」というのは実に本当ですね。中学3年生の数学と理科の知識があれば、各テーマの重要性と研究の方向性は理解できるので、発表の仕方で成否が決まります。医局のASA refresher courseの発表などでも、一所懸命、文献を読み込み勉強した人が、発表の仕方で失敗しているのをよく目の当たりにする。勉強は必要条件であって十分条件ではない。十分条件には発表の仕方が加わる。それくらい、勉強にも発表方法にも時間をかけて準備しないといけないということですね。アメリカ人は、発表している自分の姿をビデオに撮って(後ろ姿まで!)、練習するからね。僕も留学中に選択した英語のクラスで、発表の練習されられたもんなあ。まだ教室の皆さんは、発表自体の重要性を認識していないように思う。
さて、いくつか面白い発表があったので、追々報告したい。今回は、植物はなぜクロロフィルという色素を光合成に使っているか、についてです。理学部植物学講座の寺島教授は、葉っぱが光合成によって光エネルギーを効率よく得ようとするならば、葉っぱは黒色(つまり光をすべて吸収する色)であるべきだと語り、聴衆の興味をぐっと引きました。愚息まで身を乗り出したもんね。そして、葉っぱの緑色は緑色光を吸収しにくいから緑色に見えるのですが、実際は、葉っぱの内部に入った緑色光は何度も屈折して、葉っぱの裏側にある海綿状組織に吸収されるので、緑色光の吸収効率は結構高いことを示しました(勿論、緑色光以外の吸収率はもっと高いのですが...)。そして、葉っぱの表面の葉緑体の光合成はすぐに光飽和してしまうので、それ以上、白色光を強めても熱エネルギーになって散逸するだけですが、緑色光だと葉っぱの裏側まで届き、まだ飽和していない葉緑体の光合成を駆動することを示しました(http://www.biol.s.u-tokyo.ac.jp/users/seitaipl/index.html)。こうして陸上植物が、クロロフィルという緑色の(つまり緑色光を吸収しにくい)色素を光合成に使うことが、光エネルギーを取り込むためには、合目的であることを証明したのでした。パチパチパチ。
光合成について考えたのは、高校生の時以来だと思うが、大変面白く、かつリフレッシュされました。しかし実は、光合成に関する現象の大半はまだ謎だらけだそうな。これを聞いて、麻酔のメカニズムが不明なことは、科学の世界において大した問題ではないと思ったね。麻酔のメカニズムより、光合成のメカニズム解明の方がどう考えても重要だもんね。光合成こそ、自然に備わった太陽光によるエネルギー発電だから、化石燃料消滅後のエネルギー獲得にもっとも重要な研究といえるもんね。
まあ、自分がやっていることをあえて矮小化する必要はないが、たまには他分野の研究を知って、自分の分野を客観視することも重要でしょうね。東大の生命科学シンポジウム、なかなか面白いぞ、来年も行こうっと。
2009年4月20日月曜日
医学部M.D.と薬学部Ph.D.
週末に福井大学で、「痛みの機序」のお話をさせていただいた。5年生と一部6年生に向けた講義では、6年生は熱心に聞いてくれたが、5年生の一部は入眠に陥り覚醒不能であった。他方、その後の初期研修医への講義では、麻酔業務後にもかかわらず、それなりに話を聞いてくれた。
そもそも、「痛み」について、学生や研修医が興味を持っているはずがないので、上出来だったと思う。僕だって20年近く前、元ボスから「痛みを専門にせよ」と言われた時、「痛み」が男子の本懐になるとは思えず、しばし茫然としたからね。痛み研究をライフワークに決めるまで、随分と時間がかかった。もっとも、医学部5年生では、痛みは勿論のこと、iPS細胞の話でも、入眠するに違いないけどね。そして講演後、福井の教室の方々のお話をいろいろ聞くことができた。手術室も素晴らしく整備されていたし、薬物のpharmacokineticsも電子チャートに入っていたし、信州のお手本になることが多かった。
その翌日、大阪で製薬会社の研究者の集まりに参加して、鎮痛薬の創薬について討議する機会があった。こちらは当然ですが、面白かったですね。立場は違っても、痛みという感覚(と情動)について、日頃から考えている者同士なので、いろいろと触発された。また、創薬に向かうプロセスと、M.D.が研究対象を選ぶプロセスはよく似ていると思った。勿論、前者の姿勢がより厳しいのは当然ですね。投資額だって、僕達の科研費 数百万円~数千万円とは桁が2-3つは違うだろうし、同じ社内といえども、部門外からのピア・レビューに常に晒されているだろうし。
しかし医者のルーチンワークとは違って、製薬会社の研究者はきわめて創造的な仕事ですね。そして、M.D. researcherがルーチンワークに時間を割かれることを考えると、薬学出身のPh.D.の方がむしろ優位ですね。さらに最近、M.D.のP.I.が薬学部に転じる傾向があり、その理由が薬学部の学生・院生の方が医学部よりやる気があって優秀なためと聞いたが、身近なM.D.と比較して首肯せざるを得ないと思ったね。こうして、将来、製薬会社の研究者の力で、是非とも麻薬(オピオイド)を超える鎮痛薬を開発して欲しいと願っている。そして、僕としても赴任後1年以上経ったので、いつもまでものんびりとはしてられず、そろそろ研究を前進させねばと思い、帰松した。
今週末は福井や大阪で、いろいろな刺激を受けた。じっくりとした体系的な仕事をするために、自然に囲まれた信州は最適だが、1-2回/月の週末は、刺激を受けに都会に出る必要があると思う。そうしないと、あっという間に、世間知らずで内向きな人間になってしまうぞ。北海道の後輩の方が、飛行機代が高いにもかかわらず、週末、東京などでの研究会や勉強会に熱心に出ているような気がする。信州は東京や大阪に近いのだから、教室の皆も、もっとどしどし週末に勉強に出て欲しいと思う。自ら働きかけ続けないと、事態は打開できないからね。
そもそも、「痛み」について、学生や研修医が興味を持っているはずがないので、上出来だったと思う。僕だって20年近く前、元ボスから「痛みを専門にせよ」と言われた時、「痛み」が男子の本懐になるとは思えず、しばし茫然としたからね。痛み研究をライフワークに決めるまで、随分と時間がかかった。もっとも、医学部5年生では、痛みは勿論のこと、iPS細胞の話でも、入眠するに違いないけどね。そして講演後、福井の教室の方々のお話をいろいろ聞くことができた。手術室も素晴らしく整備されていたし、薬物のpharmacokineticsも電子チャートに入っていたし、信州のお手本になることが多かった。
その翌日、大阪で製薬会社の研究者の集まりに参加して、鎮痛薬の創薬について討議する機会があった。こちらは当然ですが、面白かったですね。立場は違っても、痛みという感覚(と情動)について、日頃から考えている者同士なので、いろいろと触発された。また、創薬に向かうプロセスと、M.D.が研究対象を選ぶプロセスはよく似ていると思った。勿論、前者の姿勢がより厳しいのは当然ですね。投資額だって、僕達の科研費 数百万円~数千万円とは桁が2-3つは違うだろうし、同じ社内といえども、部門外からのピア・レビューに常に晒されているだろうし。
しかし医者のルーチンワークとは違って、製薬会社の研究者はきわめて創造的な仕事ですね。そして、M.D. researcherがルーチンワークに時間を割かれることを考えると、薬学出身のPh.D.の方がむしろ優位ですね。さらに最近、M.D.のP.I.が薬学部に転じる傾向があり、その理由が薬学部の学生・院生の方が医学部よりやる気があって優秀なためと聞いたが、身近なM.D.と比較して首肯せざるを得ないと思ったね。こうして、将来、製薬会社の研究者の力で、是非とも麻薬(オピオイド)を超える鎮痛薬を開発して欲しいと願っている。そして、僕としても赴任後1年以上経ったので、いつもまでものんびりとはしてられず、そろそろ研究を前進させねばと思い、帰松した。
今週末は福井や大阪で、いろいろな刺激を受けた。じっくりとした体系的な仕事をするために、自然に囲まれた信州は最適だが、1-2回/月の週末は、刺激を受けに都会に出る必要があると思う。そうしないと、あっという間に、世間知らずで内向きな人間になってしまうぞ。北海道の後輩の方が、飛行機代が高いにもかかわらず、週末、東京などでの研究会や勉強会に熱心に出ているような気がする。信州は東京や大阪に近いのだから、教室の皆も、もっとどしどし週末に勉強に出て欲しいと思う。自ら働きかけ続けないと、事態は打開できないからね。
2009年4月14日火曜日
若い教室員は修行すべし
教室で文科省関連の科研費がいくつか当たり、欲しかった実験・臨床機器を購入できそうだ。来春の臨床研究棟の改築と合わせて、麻酔科のlabも研究に適した環境になることを期待している。とはいえ、今回通らなかったプロジェクトや、新たなプロジェクトについては、10月の申請に備えなくてはならない。そのためには、今から論文を投稿して業績化しなくては、次なる研究費獲得に支障をきたす。今回、科研費が通らなかった人を含め、教室員の皆の奮闘努力を期待したい。
さて、最近わが国ではMD researcherが減っている。「専門医指向」というのだそうだが、「○▲専門医」といった資格を得ようとするMDが増えて、研究を目指すMDが激減しているようだ。麻酔科は、臨床医学と基礎医学の間くらいに位置するイメージがあり、昔は学位を目指す人が多かったように思うが、今では学位取得を望まない人が増え、臨床に徹する傾向が強くなっている。だから麻酔科学の領域で、PIを目指す人は、もうシーラカンスみたいな存在なんだろうね。生きる化石として、臨床のlabで研究するMD researcherは、現在も将来も、臨床の仕事が終わった夕方や土日を実験日に当てざるを得ない。そこでMD researcherは、せっかくの夜や休日をどのような研究に費やすべきなのだろうか。
現在の研究とは、細胞膜にあるレセプタにある分子がつくと、それに応じて細胞が応答する細胞内シグナル伝達を進めるために、ある反応をする酵素キナーゼが存在する、そして、その反応を進めるためにも酵素キナーゼがあり、さらにその反応の触媒となるキナーゼキナーゼがあり、・・・・・・をすべて網羅・羅列することを目的化しているように思える。各研究者が発見したレセプタやキナーゼが、いかに生命現象に重要であるかを競い、最先端の生命科学の流行が作り出され、その流行の期間がますます短くなっていくように思える。
そもそも細胞内シグナル伝達では、外界に対応するだけなら、一段階の応答だけでいいはずなのに、なぜ何段もの構造が存在するのだろうか。加えて、各段階の反応を止めるために、脱リン酸化の酵素フォスファターゼが存在する。また、一つの酵素だけが対応しているのではなく、多くの酵素が関連して反応が進み、各経路は多くの枝分かれをした後、その枝がしばしば合流する。この冗長さは、分子生物学的な方法論に原因があるのではないか。つまり分子生物学的手法は、顕微鏡を見ながら森の中に入っているようなもので、細かい分子の動態が見え過ぎて、森全体の光合成を見るには適していないのではないかとすら思える。そして現在の科学者の仕事とは、自分が発見したレセプタやキナーゼのシグナル伝達機構を、羅列・枚挙することに一生を費やすことのように思える。
ゲノム、プロテオーム、メタボロームといった巨大研究プロジェクトも、羅列化、枚挙主義が目的化した果ての仕事のように思える。そして、個体全体の機能についての問いかけるのは科学の仕事ではなくなり、むしろ哲学の仕事へと回帰してしまったようにみえる。本来、分子生物学は、「人(ヒト)はどこからきて、どこへ行くのか(どうして死ぬのか)」という哲学的な問いかけに対し、科学的な回答を用意する学問と考えられていたはずなのに。このように、枚挙主義が一般化した現代の生命科学においては、西崎泰美氏が言うように、「最先端における新事実はお金さえかければいくらでも出てくる」ことになる。 つまりお金で科学業績(論文)が買えることになった。まぁ、一部、極論だけどね。
さて話をMD researcherに戻す。MD researcherにとって、貴重な夜や土日を実験に費やすのに値する研究とは何であろうか。少なくとも、羅列化や枚挙主義ではなかろう。枚挙主義の論文が通用するのは、最先端(科学的流行の?)領域であろうから、MD researcherは最先端(とされる)領域を少し避けるべきかも知れない。麻酔科学は、循環、呼吸、神経、免疫などの各ネットワークの関係性を探り、ヒトのホメオスタシスとは何かを問い続ける学問分野である。したがって、麻酔科におけるMD researcherは、各ネットワークが統合されたヒトの機能を見ていく上での「ものの見方、思想」が形成できるための実験をすべきだと考えている。具体的には、臨床を反映した個体モデルのin vivo実験にこだわり続けて、「ヒトの診かた」の体系を作る努力をすべきだろう。
とはいえ、MD researcherといえども、いやMD researcherであるが故に、最先端分野に参入しなくとも、Goldsteinが言うように、最先端の基礎的な研究手法と知識をしっかり学ぶことが不可欠である(http://www.jci.org/articles/view/112652 このGoldsteinの論文は大学院生に教えてもらった)。したがって、研究を指向する人は、若い頃にしっかりとした指導者のいるlabに研究修行に行くべきである。このため、僕達の教室でも、今春から大学院生には、生理研(井本研)や新藤研に行ってもらって、しっかりとした研究手法と論理的思考を学んで帰ってきてもらいたい。こうした修行は、研究を指向する人だけに該当するのではない。臨床を指向する若い教室員も、若い頃にしっかりとした機関や施設に臨床修行に行ってもらって、臨床上の新たな手技・手法と臨床医学の論理を身につけるべきである。こうして、要望に応じて、来春からいくつかの施設に臨床の勉強に行ってもらおうと計画中である。
若い時の苦労は買ってでもしろ、というじゃないか。僅かなお金につられて、しょぼい指導者しかいない病院で研修した人は、いつかそのツケが返ってくると思う。若者よ、若い時にこそ修行に出るべし。
さて、最近わが国ではMD researcherが減っている。「専門医指向」というのだそうだが、「○▲専門医」といった資格を得ようとするMDが増えて、研究を目指すMDが激減しているようだ。麻酔科は、臨床医学と基礎医学の間くらいに位置するイメージがあり、昔は学位を目指す人が多かったように思うが、今では学位取得を望まない人が増え、臨床に徹する傾向が強くなっている。だから麻酔科学の領域で、PIを目指す人は、もうシーラカンスみたいな存在なんだろうね。生きる化石として、臨床のlabで研究するMD researcherは、現在も将来も、臨床の仕事が終わった夕方や土日を実験日に当てざるを得ない。そこでMD researcherは、せっかくの夜や休日をどのような研究に費やすべきなのだろうか。
現在の研究とは、細胞膜にあるレセプタにある分子がつくと、それに応じて細胞が応答する細胞内シグナル伝達を進めるために、ある反応をする酵素キナーゼが存在する、そして、その反応を進めるためにも酵素キナーゼがあり、さらにその反応の触媒となるキナーゼキナーゼがあり、・・・・・・をすべて網羅・羅列することを目的化しているように思える。各研究者が発見したレセプタやキナーゼが、いかに生命現象に重要であるかを競い、最先端の生命科学の流行が作り出され、その流行の期間がますます短くなっていくように思える。
そもそも細胞内シグナル伝達では、外界に対応するだけなら、一段階の応答だけでいいはずなのに、なぜ何段もの構造が存在するのだろうか。加えて、各段階の反応を止めるために、脱リン酸化の酵素フォスファターゼが存在する。また、一つの酵素だけが対応しているのではなく、多くの酵素が関連して反応が進み、各経路は多くの枝分かれをした後、その枝がしばしば合流する。この冗長さは、分子生物学的な方法論に原因があるのではないか。つまり分子生物学的手法は、顕微鏡を見ながら森の中に入っているようなもので、細かい分子の動態が見え過ぎて、森全体の光合成を見るには適していないのではないかとすら思える。そして現在の科学者の仕事とは、自分が発見したレセプタやキナーゼのシグナル伝達機構を、羅列・枚挙することに一生を費やすことのように思える。
ゲノム、プロテオーム、メタボロームといった巨大研究プロジェクトも、羅列化、枚挙主義が目的化した果ての仕事のように思える。そして、個体全体の機能についての問いかけるのは科学の仕事ではなくなり、むしろ哲学の仕事へと回帰してしまったようにみえる。本来、分子生物学は、「人(ヒト)はどこからきて、どこへ行くのか(どうして死ぬのか)」という哲学的な問いかけに対し、科学的な回答を用意する学問と考えられていたはずなのに。このように、枚挙主義が一般化した現代の生命科学においては、西崎泰美氏が言うように、「最先端における新事実はお金さえかければいくらでも出てくる」ことになる。 つまりお金で科学業績(論文)が買えることになった。まぁ、一部、極論だけどね。
さて話をMD researcherに戻す。MD researcherにとって、貴重な夜や土日を実験に費やすのに値する研究とは何であろうか。少なくとも、羅列化や枚挙主義ではなかろう。枚挙主義の論文が通用するのは、最先端(科学的流行の?)領域であろうから、MD researcherは最先端(とされる)領域を少し避けるべきかも知れない。麻酔科学は、循環、呼吸、神経、免疫などの各ネットワークの関係性を探り、ヒトのホメオスタシスとは何かを問い続ける学問分野である。したがって、麻酔科におけるMD researcherは、各ネットワークが統合されたヒトの機能を見ていく上での「ものの見方、思想」が形成できるための実験をすべきだと考えている。具体的には、臨床を反映した個体モデルのin vivo実験にこだわり続けて、「ヒトの診かた」の体系を作る努力をすべきだろう。
とはいえ、MD researcherといえども、いやMD researcherであるが故に、最先端分野に参入しなくとも、Goldsteinが言うように、最先端の基礎的な研究手法と知識をしっかり学ぶことが不可欠である(http://www.jci.org/articles/view/112652 このGoldsteinの論文は大学院生に教えてもらった)。したがって、研究を指向する人は、若い頃にしっかりとした指導者のいるlabに研究修行に行くべきである。このため、僕達の教室でも、今春から大学院生には、生理研(井本研)や新藤研に行ってもらって、しっかりとした研究手法と論理的思考を学んで帰ってきてもらいたい。こうした修行は、研究を指向する人だけに該当するのではない。臨床を指向する若い教室員も、若い頃にしっかりとした機関や施設に臨床修行に行ってもらって、臨床上の新たな手技・手法と臨床医学の論理を身につけるべきである。こうして、要望に応じて、来春からいくつかの施設に臨床の勉強に行ってもらおうと計画中である。
若い時の苦労は買ってでもしろ、というじゃないか。僅かなお金につられて、しょぼい指導者しかいない病院で研修した人は、いつかそのツケが返ってくると思う。若者よ、若い時にこそ修行に出るべし。
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