夏休み期間の信州麻酔科セミナー企画として、新潟大学のK先生、群馬大学のO先生に来ていただき、、麻酔科における基礎研究の面白さ(研究に関わった動機や留学の楽しさ)などを語ってもらった。
今、麻酔科に限らず、臨床医で研究を目指す人(MD researcher)が急激に減少しつつあるようです。この傾向は初期研修制度の導入後、研修医が都市への偏在していったことと、期を同一にしている印象があます。Anesthesiology誌への日本からの投稿数も激減しているようで、これらの原因として地方大学での研究活動の低下が挙げられるのではないでしょうか。というのは、これまで麻酔科領域においては都市部の大学や旧帝大だけでなく、むしろ地方大学から世界へと発信された研究が少なくなかったといえるからです。
ではどうしたらいいのでしょうか? 実はこの問題について今回の麻酔科学会で発表しなくてはならないのですが、まだ十分に考えがまとまっていません。しかし、K先生とO先生の発表を聞きながら、麻酔科学の研究分野において、早急な道州制の導入が必要かつ有効ではなかろうかと考えていました。
道州制とは、要は明治に廃藩置県でできた行政区分が、日本の人口の低下と都市部への人口偏在に対応できなくなってきたので、より大きな行政区域に再編して、それぞれの道州政府に独自の予算編成権を与えようとすることですよね。そうであれば、道州制の導入に伴い、(極論すれば)新潟大学、群馬大学、信州大学などがが関東甲信越州立大学に集約されて、それぞれ新潟分校、群馬分校、信州分校になるかも知れません。カルフォルニア大学ロサンジェルス校、サンフランス校、デービス校みたいにね。少なくとも教養課程や一部の基礎医学は一本化できるかも知れません。
どうせ行政側がそれを狙っているのなら、研究の領域でさっさと道州制を先取りして、現在の新潟大学、群馬大学、信州大学の麻酔科領域において、オーバーラップした無駄な研究は止めてしまい、あらかじめ研究プロジェクトのすり合わせをして、必要な部分について共同研究化すればいいのではないでしょうか。新潟のO先生にはin vitroの電気生理をしてもらって、群馬のO先生には創薬や免染してもらって、信州はin vivoの電気生理やればいいとかね。
研究すり合わせをするそれぞれの分校の研究主任を、アメリカ流にProf.あるいはPIという呼称すればいいと思いますね。こう考えると、K先生が代表世話人で始めたPMRG(Pain Mechanism Research Group)などは、時代を先取りした動きなのかも知れません。今後はこうしたグループで、文科省(特定領域、基盤S)や厚労省の科研費を共同で取っていく動きが出るかも知れません。あるいは麻酔科学会の呼びかけで、数年間の宿題研究などを設定して、プロジェクトを公募して、麻酔科学会学術部会として科研費申請するとかね。勿論、各組織内部・外部に競争原理を残しておかないといけませんが、MD researcherが少なくなっている以上、不必要な外部競争を排除し、各施設での研究費の節約を行い、より大きなプロジェクトにお金を集中させることが今後必要になるかも知れませんね。
うーん、結構面白そうな気がします。この方向で今回の麻酔科学会の発表スライドを作ってみようと思います。K先生やO先生の名前もスライドに入れされてもらってPMRGを宣伝したいと思います。
アメリカのように1大学に麻酔科医がレジデントを入れて100-300人いるようなところと臨床研究で競争するためには、日本は大学連合として対抗する以外なく、大学間の垣根を取り払い、基礎や臨床といった棲み分けも取っ払う必要があると思います。こうした発想って、結局、研究面における大学集約化、あるいは道州制導入と同じことを意味するのだと思うので、タイトルを研究のための道州制としてみました。
2009年8月14日金曜日
2009年8月10日月曜日
ヒトはどのように特別なチンパンジーか:再考
もう少し「ヒトはどのように特別なチンパンジーか」について考えてみます。
ヒトは群れ生活を通して、社会関係の認知と他者操作が影響して、模倣、共感、他者の内面理解、言語といった能力を獲得して、特別なチンパンジーになったと、以前、書きました(5/26)。では、最初に群れ生活を促した進化論的メカニズムは何なのだろう、というのが今回の主題です。
群れ生活は、外集団に対する敵意により発生したとされるようです(http://www.santafe.edu/~bowles/ConflictAltruismMidwife.pdf)。つまり、群れ以外の集団への敵意や闘争と、集団内部に対する博愛主義は、同時に発生したというのです。これは、集団内部で食料を分かち合い平等性を担保するためには、他集団への敵意や闘争が不可欠であったという考え方で、他の群れに対する敵意、競争、闘争が、群れ生活を促した原動力ということになります。
もっとも単純な動物である単細胞動物は、まずはカイメンのように群生して、それから多細胞動物へと進化し、体のサイズが大きくなったと考えられている。体が大きくなると、外敵から身を守りやすくなるなど、より安全になるからね。しかし、あまりに大きくなり過ぎると、今度はエネルギー効率の問題が派生します。つまり、生存のために、基礎代謝にすら多大なエネルギーを要するようになり、これらの多大なエネルギー需要のために1日中食べていなくてはならなくなります。これでは、たとえ体のサイズを大きくして安全を獲得したとしても、生存するためには非効率的になってしまいます。そこで、ヒトはエネルギー効率を維持するために、中等度のサイズ(身長1.5-2 m)以上は大きくならず、その代わり、群れ生活をして、外的からの攻撃から身をかわす戦略を取ったのかも知れません。
さらに、群れ生活は、天敵-他種-からの攻撃を防御するというより、むしろ同種の他群からの攻撃から身を守るのが主目的だったのかも知れませんね。食料が乏しい時代に生き延びるためには、異なった食物をエネルギー源とする他種動物よりも、同じ食物をエネルギー源とする、同種の他集団の方が阻害要因としては大きいはずですからね。こう考えると、群れ生活を促進した同種の他集団に対する敵意は、内部の博愛主義を生む原動力になり、内部メンバーに対する共感とは、外部に対する敵意があって初めて生じる情動ということになるのかも知れません。ヨーロッパに見られる軍事的な強力な国家が、同時に大いなる福祉国家でもあるという事実がいい例なのかも知れません。
集団内部を統一維持するためには、集団内の同一性と他集団との差別化が不可欠ですから、同じ肌の色、よく似た風貌などに加え、共通の言語(他集団とは異なる言語)の発達が必要となったのでしょうか。そして、ヒトが集団生活をとった後、農業の発達による定住性を獲得して、国家という集団へと発展していったということになります。こうなると、国家間の戦争も、国家内部の統一性や平等性には不可欠ということになってしまうのでしょうか。少し悲しいですが...
そうすると、各大学の医局間で、アメリカ麻○学会に採用された演題数を競うといった無益な競争も、無理やり仮想敵を設定して、その外敵(?)に対する闘争意識を無理やり煽って、内部成員の研究へのモチベーションを高めるメリットがあったのかも知れませんね。
とはいえ、ヒトが特別な脳を持ったチンパンジーだったから集団化が進んだのか、集団化に進んだから特別な脳を持つヒトへと進化したかは、ニワトリが先か卵が先かと同じで、結論は出ないでしょうね。数学や物理と違って、生命科学には時間(進化)という要素が入らざるを得ず、そのため原因と結果がいつも堂々巡りしているように思います。まあ夏休み数日、ぼんやりと考えた堂々巡り理論でした。
ヒトは群れ生活を通して、社会関係の認知と他者操作が影響して、模倣、共感、他者の内面理解、言語といった能力を獲得して、特別なチンパンジーになったと、以前、書きました(5/26)。では、最初に群れ生活を促した進化論的メカニズムは何なのだろう、というのが今回の主題です。
群れ生活は、外集団に対する敵意により発生したとされるようです(http://www.santafe.edu/~bowles/ConflictAltruismMidwife.pdf)。つまり、群れ以外の集団への敵意や闘争と、集団内部に対する博愛主義は、同時に発生したというのです。これは、集団内部で食料を分かち合い平等性を担保するためには、他集団への敵意や闘争が不可欠であったという考え方で、他の群れに対する敵意、競争、闘争が、群れ生活を促した原動力ということになります。
もっとも単純な動物である単細胞動物は、まずはカイメンのように群生して、それから多細胞動物へと進化し、体のサイズが大きくなったと考えられている。体が大きくなると、外敵から身を守りやすくなるなど、より安全になるからね。しかし、あまりに大きくなり過ぎると、今度はエネルギー効率の問題が派生します。つまり、生存のために、基礎代謝にすら多大なエネルギーを要するようになり、これらの多大なエネルギー需要のために1日中食べていなくてはならなくなります。これでは、たとえ体のサイズを大きくして安全を獲得したとしても、生存するためには非効率的になってしまいます。そこで、ヒトはエネルギー効率を維持するために、中等度のサイズ(身長1.5-2 m)以上は大きくならず、その代わり、群れ生活をして、外的からの攻撃から身をかわす戦略を取ったのかも知れません。
さらに、群れ生活は、天敵-他種-からの攻撃を防御するというより、むしろ同種の他群からの攻撃から身を守るのが主目的だったのかも知れませんね。食料が乏しい時代に生き延びるためには、異なった食物をエネルギー源とする他種動物よりも、同じ食物をエネルギー源とする、同種の他集団の方が阻害要因としては大きいはずですからね。こう考えると、群れ生活を促進した同種の他集団に対する敵意は、内部の博愛主義を生む原動力になり、内部メンバーに対する共感とは、外部に対する敵意があって初めて生じる情動ということになるのかも知れません。ヨーロッパに見られる軍事的な強力な国家が、同時に大いなる福祉国家でもあるという事実がいい例なのかも知れません。
集団内部を統一維持するためには、集団内の同一性と他集団との差別化が不可欠ですから、同じ肌の色、よく似た風貌などに加え、共通の言語(他集団とは異なる言語)の発達が必要となったのでしょうか。そして、ヒトが集団生活をとった後、農業の発達による定住性を獲得して、国家という集団へと発展していったということになります。こうなると、国家間の戦争も、国家内部の統一性や平等性には不可欠ということになってしまうのでしょうか。少し悲しいですが...
そうすると、各大学の医局間で、アメリカ麻○学会に採用された演題数を競うといった無益な競争も、無理やり仮想敵を設定して、その外敵(?)に対する闘争意識を無理やり煽って、内部成員の研究へのモチベーションを高めるメリットがあったのかも知れませんね。
とはいえ、ヒトが特別な脳を持ったチンパンジーだったから集団化が進んだのか、集団化に進んだから特別な脳を持つヒトへと進化したかは、ニワトリが先か卵が先かと同じで、結論は出ないでしょうね。数学や物理と違って、生命科学には時間(進化)という要素が入らざるを得ず、そのため原因と結果がいつも堂々巡りしているように思います。まあ夏休み数日、ぼんやりと考えた堂々巡り理論でした。
2009年8月4日火曜日
夏の京都の国際生理学会
京都で開催された国際生理学会(http://www.iups2009.com/jp/index.html)に行ってきました。といっても、brush upのために、痛み研究のwhole day symposiumに1日参加しただけですがね。教室の大学院生と一緒に参加したのですが、彼女が一所懸命、発表内容をノートに取っているのを見て、20年近く前の自分の姿を思い出しました。当時の私も、同じような国際シンポジウムに参加しては、討議されている内容がさっぱりわからず、飛び交うレセプタや拮抗薬の名前をノートに書き取るだけで必死でした。シンポジウムから帰って、ノートを頼りに論文を沢山読み、ようやく理解して、翌年、別の研究会に参加すると新たな概念が出ており、また必死でノートに取って...の繰り返しをしていました。
このように根本的な知識不足に加え、当時所属していた教室には新しい研究手法がありませんでした。にも係わらず、痛み研究で学位を取れと命じられており、自分のアイデアで実験を開始したものの、データの解釈ができず、自分の研究の方向性もわからず悶々としていました。素直な性格でないせいか、直属上司にも見放され(?)、研究会で見知らぬ基礎の先生方に相談しては、御迷惑をおかけしていたように思います。そういう中から、将来敬愛するようになる先生方に出会えたのですが、それはまた別のお話ですね。
今となっては、当時の自分の一所懸命さを懐かしく思い出します。時を経て、「批判的に論文を読む」ということも少しはわかるようになりました。痛みの研究の進んでいく方向性についても、ある程度予測が立つようになりました。しかし逆に、自分のデータや後輩のデータに一喜一憂することも少なくなりました。つまり、自分の仮説を100%信じておらず、常に進路の変更や撤退を考えながら、研究成果を形にするために研究をしているような感覚を持つようになりました。「これではいかーん!」と思うのですが、日常些事に忙殺された結果、研究者魂を捨てて、教室のadministratorに成り下がった自分を正当化するようになってきたのも事実です。
今回、京都の国際生理学会に参加し、僕の横で必死でノートを取っている大学院生を見ながら、僕ももう一度、彼/彼女達の必死さを共有させてもらって、一研究者として、もう少し前に進んでみたいなぁ、と思ったのでした。まぁ、こんな殊勝な態度がいつまで続くかは不明だけどね。ともかく、夏の京都は大嫌いだし、学会参加費55,000円も高かったけど、国際生理学会に来てよかったなと思いましたね。 帰りには昔よく行った天天有のラーメンも入手したし...
とにかく、教室の若者・大学院生達、頑張ってくれい。そして、あんた達のエネルギーを私にも少し分けてくれい、そうするとおじさん、もう少し頑張れそうな気がするのだから...
このように根本的な知識不足に加え、当時所属していた教室には新しい研究手法がありませんでした。にも係わらず、痛み研究で学位を取れと命じられており、自分のアイデアで実験を開始したものの、データの解釈ができず、自分の研究の方向性もわからず悶々としていました。素直な性格でないせいか、直属上司にも見放され(?)、研究会で見知らぬ基礎の先生方に相談しては、御迷惑をおかけしていたように思います。そういう中から、将来敬愛するようになる先生方に出会えたのですが、それはまた別のお話ですね。
今となっては、当時の自分の一所懸命さを懐かしく思い出します。時を経て、「批判的に論文を読む」ということも少しはわかるようになりました。痛みの研究の進んでいく方向性についても、ある程度予測が立つようになりました。しかし逆に、自分のデータや後輩のデータに一喜一憂することも少なくなりました。つまり、自分の仮説を100%信じておらず、常に進路の変更や撤退を考えながら、研究成果を形にするために研究をしているような感覚を持つようになりました。「これではいかーん!」と思うのですが、日常些事に忙殺された結果、研究者魂を捨てて、教室のadministratorに成り下がった自分を正当化するようになってきたのも事実です。
今回、京都の国際生理学会に参加し、僕の横で必死でノートを取っている大学院生を見ながら、僕ももう一度、彼/彼女達の必死さを共有させてもらって、一研究者として、もう少し前に進んでみたいなぁ、と思ったのでした。まぁ、こんな殊勝な態度がいつまで続くかは不明だけどね。ともかく、夏の京都は大嫌いだし、学会参加費55,000円も高かったけど、国際生理学会に来てよかったなと思いましたね。 帰りには昔よく行った天天有のラーメンも入手したし...
とにかく、教室の若者・大学院生達、頑張ってくれい。そして、あんた達のエネルギーを私にも少し分けてくれい、そうするとおじさん、もう少し頑張れそうな気がするのだから...
2009年7月29日水曜日
教授って何?
■△大学の教授選が終わりました。この教授選について大きな誤解があったようで、あちこちの人から立候補してるんでしょ? と聞かれました。強く否定しても(出ていないのだから当然否定します)、○▲先生に頼まれて書類を出したんじゃないの、などといわれる始末でした。世間は教授選に秘かな興味があるんですね。ともあれ、これを契機に教授って何だろうと考えてみました。
昔は若者は背中で教育できると思っていました。つまり、一所懸命、臨床&研究していると、人は勝手についてくると思っていたのです。でもこれって、一昔前の「頑固親父の背中をみて育てる」教育法で、つまり、初期教育の放棄なんでしょうね。昔のおやぢは、時々、ビールで酔っ払った勢いで子供を叱り付けて、子供とコミュニケーションしているつもりだったのでしょうが、実際は自分の日常の憂さ晴らしだったんでしょうね。
最近では、医局員を自分の子供と同じだと思うようになりました。つまり医局員は、「社会からの預かりもの」ということですね。だから上司達がちゃんと育てて、社会に還元するという責務を負っています。その際、もっとも重要なのが、社会人になった最初数年間の教育ではないでしょうか。なぜなら、医師はPh.D.とは異なり、科学的な思考や方法論をほとんど学ばずに、いきなり社会人(研修医)になってしまいます。ですからこの研修医時代に、科学的に考え行動するクセをつけておかないと、現状の医療に疑いを持たず、あるいは「思い込み」だけで医療を行う医師になってしまうリスクがあるからです。研修医時代にこそ、人間という複雑な対象に畏れと尊敬の念を持ち、できる限り客観的に観る(診る)姿勢を学ぶべきです。逆説的には、医師になった最初のうちに、自分達が人間について、実は何も知らないということを十分に知る必要があります(?!)。 5年前から始まった初期研修制度は、少なくともこの点については失敗で、現存の技術だけを習ったらいい医者になれるという錯覚を若者に与えてしまったように思います。
さて、何より大学教授こそが、人間は人間について何も知らないということを研修医に教える使命があると思います。なぜなら、「人間とは何か?」と問いかけ続けているのが、教授を筆頭とする大学教官で、自分達がいかに人間について知らないかを、実は一番よく知っている人達だからです。勿論、どんな人でも、人間って何なのだろうと、秘かに問いかけていると思います。しかし、教授あるいはPI(Principal Investigator:研究室の主宰者)こそが、世間に向かって照れずに(これが結構重要だと思います)「人間って何?」と問いかけることができる数少ない職業だからです。そして、こんな青臭いことを問い続ける人は、社会にとって有益性に乏しい人達なので、教授選考をして絶対数が増えないように規制されているのかも知れませんね。
それでも、世の中には「人間って何?」と問い続けないと生きていけないタイプの人が(多分)います。そんな変人が社会の片隅で、それなり尊厳を保ってに生きていくためには、教授やPIを目指すしかないのですよ。勿論、現在においても教授を目指す動機が、「偉そぶりたい」という人がいるのも事実です。しかし残念ながら、時代は変わりつつあり、すでに社会は偉そぶりたい教授を必要としていないと思いますね。それに、偉そぶるためには情報の独占化が不可欠ですが、インターネットの時代になって情報の独占は不可能ですから、白い巨塔は遠い昔となりました。
繰り返しますが、教授やPIになれば、「人間って何?」と問いかけ続けるタイプの人でも、世間から変人扱いされな いで生きていけるという利点があります。他方、教授やPIとは、結局、教育者としてご飯を食べている職業ですから、次世代の若者を教育し、鼓舞し奮起を促さなくてはなりません。しかし、若者の教育は苦労が多く責任も重い反面、大変楽しい作業でもあります。いつまでも若者から元気を貰えるしね。
だからさぁ、PIや医学部教授を目指すという、今となっては変わりものの若者が増えてくれないかと願っている訳です。水と空気の美味しい、風光明媚な地方大学のPIや教授って、案外いい職業だと思うんだけどなぁ。そんな若者が増えてくれたら、僕はとっとと引退してフリークライミングと沢登りに専念したいと考えているのですが...
昔は若者は背中で教育できると思っていました。つまり、一所懸命、臨床&研究していると、人は勝手についてくると思っていたのです。でもこれって、一昔前の「頑固親父の背中をみて育てる」教育法で、つまり、初期教育の放棄なんでしょうね。昔のおやぢは、時々、ビールで酔っ払った勢いで子供を叱り付けて、子供とコミュニケーションしているつもりだったのでしょうが、実際は自分の日常の憂さ晴らしだったんでしょうね。
最近では、医局員を自分の子供と同じだと思うようになりました。つまり医局員は、「社会からの預かりもの」ということですね。だから上司達がちゃんと育てて、社会に還元するという責務を負っています。その際、もっとも重要なのが、社会人になった最初数年間の教育ではないでしょうか。なぜなら、医師はPh.D.とは異なり、科学的な思考や方法論をほとんど学ばずに、いきなり社会人(研修医)になってしまいます。ですからこの研修医時代に、科学的に考え行動するクセをつけておかないと、現状の医療に疑いを持たず、あるいは「思い込み」だけで医療を行う医師になってしまうリスクがあるからです。研修医時代にこそ、人間という複雑な対象に畏れと尊敬の念を持ち、できる限り客観的に観る(診る)姿勢を学ぶべきです。逆説的には、医師になった最初のうちに、自分達が人間について、実は何も知らないということを十分に知る必要があります(?!)。 5年前から始まった初期研修制度は、少なくともこの点については失敗で、現存の技術だけを習ったらいい医者になれるという錯覚を若者に与えてしまったように思います。
さて、何より大学教授こそが、人間は人間について何も知らないということを研修医に教える使命があると思います。なぜなら、「人間とは何か?」と問いかけ続けているのが、教授を筆頭とする大学教官で、自分達がいかに人間について知らないかを、実は一番よく知っている人達だからです。勿論、どんな人でも、人間って何なのだろうと、秘かに問いかけていると思います。しかし、教授あるいはPI(Principal Investigator:研究室の主宰者)こそが、世間に向かって照れずに(これが結構重要だと思います)「人間って何?」と問いかけることができる数少ない職業だからです。そして、こんな青臭いことを問い続ける人は、社会にとって有益性に乏しい人達なので、教授選考をして絶対数が増えないように規制されているのかも知れませんね。
それでも、世の中には「人間って何?」と問い続けないと生きていけないタイプの人が(多分)います。そんな変人が社会の片隅で、それなり尊厳を保ってに生きていくためには、教授やPIを目指すしかないのですよ。勿論、現在においても教授を目指す動機が、「偉そぶりたい」という人がいるのも事実です。しかし残念ながら、時代は変わりつつあり、すでに社会は偉そぶりたい教授を必要としていないと思いますね。それに、偉そぶるためには情報の独占化が不可欠ですが、インターネットの時代になって情報の独占は不可能ですから、白い巨塔は遠い昔となりました。
繰り返しますが、教授やPIになれば、「人間って何?」と問いかけ続けるタイプの人でも、世間から変人扱いされな いで生きていけるという利点があります。他方、教授やPIとは、結局、教育者としてご飯を食べている職業ですから、次世代の若者を教育し、鼓舞し奮起を促さなくてはなりません。しかし、若者の教育は苦労が多く責任も重い反面、大変楽しい作業でもあります。いつまでも若者から元気を貰えるしね。
だからさぁ、PIや医学部教授を目指すという、今となっては変わりものの若者が増えてくれないかと願っている訳です。水と空気の美味しい、風光明媚な地方大学のPIや教授って、案外いい職業だと思うんだけどなぁ。そんな若者が増えてくれたら、僕はとっとと引退してフリークライミングと沢登りに専念したいと考えているのですが...
2009年7月20日月曜日
情動と認知の痛み
6月はいろいろと忙しくて、ブログの更新できなかったので、申し訳ありませんでした。
さて、ペインクリニック学会と疼痛学会合同の名古屋ペイン2009(名古屋)に行ってきました。両学会が合同に開催するようになってから、臨床と基礎の交流がうまくいくようになって、学会の雰囲気がアメリカ疼痛学会のようにオープンで、学際的になってきたように感じます。日本の疼痛治療も、ペインクリニック治療=神経ブロックという雰囲気から、痛みの機序を推定しながらinterventionや薬物療法を行う方向へと変化しつつあるように感じて、僕としてはうれしく感じます。まあ異論もあるでしょうが。
なかでも、慈恵医大生理の加藤教授が、講演の最後に仰っていた内容が興味深かったです。外敵から襲われると、その痛みや外敵の臭いを記憶し、不安、恐怖、不快といった負の情動を保持する。そうすると、二度とそうした危険が及ぶ環境に身を置かなくなり、生存確率が増えるという考え方です。つまり、情動の起源を、生体警告系に対する神経系応答(痛みの知覚面のことですね)の記憶に関連する体験として捉えようとする考え方ですね。これは新たな考え方かも知れません。この考え方では、痛みの認知面と情動面(=不快)が、記憶を介して密接に繋がっていることが容易に了解できますね。そうすればもしかしたら、逆に「快」という情動とは、進化の過程において、身の安全が確保されて、食料の心配が少なく、子孫をより残せる確立が高い環境にあった時の、記憶に関連した神経活動ということになるかも知れませんね。 この「快」の延長線上に「愛」があるのかも知れません。
15年くらい前、某大学の生理学の教授から、「21世紀は愛を生理学で解き明かす時代だよ、痛みのような原始的な感覚の解明では、いずれ時代遅れになるよ」と言われたことを覚えています。確かに加藤教授の扁桃体での素晴らしい研究を聞いていると、「快」、「不快」から、さらに「愛情」や「意識」といった問題についてまで、生理学が解き明かせる時代が、もうそう遠くはないようにも思います。冗談ではなく、本当に「愛の生理学」の時代が来ているのかも知れませんね。
さて、ペインクリニック学会と疼痛学会合同の名古屋ペイン2009(名古屋)に行ってきました。両学会が合同に開催するようになってから、臨床と基礎の交流がうまくいくようになって、学会の雰囲気がアメリカ疼痛学会のようにオープンで、学際的になってきたように感じます。日本の疼痛治療も、ペインクリニック治療=神経ブロックという雰囲気から、痛みの機序を推定しながらinterventionや薬物療法を行う方向へと変化しつつあるように感じて、僕としてはうれしく感じます。まあ異論もあるでしょうが。
なかでも、慈恵医大生理の加藤教授が、講演の最後に仰っていた内容が興味深かったです。外敵から襲われると、その痛みや外敵の臭いを記憶し、不安、恐怖、不快といった負の情動を保持する。そうすると、二度とそうした危険が及ぶ環境に身を置かなくなり、生存確率が増えるという考え方です。つまり、情動の起源を、生体警告系に対する神経系応答(痛みの知覚面のことですね)の記憶に関連する体験として捉えようとする考え方ですね。これは新たな考え方かも知れません。この考え方では、痛みの認知面と情動面(=不快)が、記憶を介して密接に繋がっていることが容易に了解できますね。そうすればもしかしたら、逆に「快」という情動とは、進化の過程において、身の安全が確保されて、食料の心配が少なく、子孫をより残せる確立が高い環境にあった時の、記憶に関連した神経活動ということになるかも知れませんね。 この「快」の延長線上に「愛」があるのかも知れません。
15年くらい前、某大学の生理学の教授から、「21世紀は愛を生理学で解き明かす時代だよ、痛みのような原始的な感覚の解明では、いずれ時代遅れになるよ」と言われたことを覚えています。確かに加藤教授の扁桃体での素晴らしい研究を聞いていると、「快」、「不快」から、さらに「愛情」や「意識」といった問題についてまで、生理学が解き明かせる時代が、もうそう遠くはないようにも思います。冗談ではなく、本当に「愛の生理学」の時代が来ているのかも知れませんね。
2009年5月26日火曜日
生命科学シンポジウムその2:ヒトはどのように特別なチンパンジーか
東大生命科学シンポジウムで面白かった二つ目の講演は、総合文化研究科の長谷川寿一教授の、「ヒトはどのように特別なチンパンジーか」でした。
ヒトは遺伝学的にはチンパンジーと最も近縁で、チンパンジーもゴリラよりヒトに近縁だそうです。果実依存性の他の類人猿とは異なり、ヒト/チンパンジーだけが肉食を行い、雄同志が絆に結ばれて集団で生活し、協同で狩りを行うなどの特徴がある。そして、(残念なことに)ヒト/チンパンジーだけで、集団間の闘争(戦争)が見られるらしい。講演の中での、チンパンジーの集団が、他グループのチンパンジーを「狩る」映像は衝撃的であった。
さて、ヒトとチンパンジーを分けるものは何か。ヒトがチンパンジー以上に認知機能が発達したのは、群れ生活における社会関係の認知と他者操作が影響したとのことで、これを社会脳仮説というらしい。この結果、ヒトは模倣、共感、他者の内面理解(マインドリーディング)、言語といった能力を獲得して、文化や文明を築き上げた。 実際、群れの大きさ(サイズ)と脳容量の間により強い相関関係があるらしい。そして、火を用いた調理と肉食によって、類人猿の伝統である果実依存性から解放され、集団生活を安定化できた。こうして、手間暇のかかる子育てを集団で協同で行なうようになり、繁殖開始年齢が遅い大きな脳を持つ子どもを、短い出産間隔で産出できるようになった。こうして、ヒトが地球上で繁栄してきたと考えられている。
こうした長谷川教授の方法論は、チンパンジーの行動観察を通して、ヒトとの共通部分と異なった部分を明確にすることで、「ヒトとは何か」というテーマに迫ろうとしているのですね。麻酔によって意識を消失させたり、痛みを抑制することで、逆に「意識とは何か」、「痛みとは何か」を知ろうとする、麻酔科学に似ているかも知れませんね。
ヒトは遺伝学的にはチンパンジーと最も近縁で、チンパンジーもゴリラよりヒトに近縁だそうです。果実依存性の他の類人猿とは異なり、ヒト/チンパンジーだけが肉食を行い、雄同志が絆に結ばれて集団で生活し、協同で狩りを行うなどの特徴がある。そして、(残念なことに)ヒト/チンパンジーだけで、集団間の闘争(戦争)が見られるらしい。講演の中での、チンパンジーの集団が、他グループのチンパンジーを「狩る」映像は衝撃的であった。
さて、ヒトとチンパンジーを分けるものは何か。ヒトがチンパンジー以上に認知機能が発達したのは、群れ生活における社会関係の認知と他者操作が影響したとのことで、これを社会脳仮説というらしい。この結果、ヒトは模倣、共感、他者の内面理解(マインドリーディング)、言語といった能力を獲得して、文化や文明を築き上げた。 実際、群れの大きさ(サイズ)と脳容量の間により強い相関関係があるらしい。そして、火を用いた調理と肉食によって、類人猿の伝統である果実依存性から解放され、集団生活を安定化できた。こうして、手間暇のかかる子育てを集団で協同で行なうようになり、繁殖開始年齢が遅い大きな脳を持つ子どもを、短い出産間隔で産出できるようになった。こうして、ヒトが地球上で繁栄してきたと考えられている。
こうした長谷川教授の方法論は、チンパンジーの行動観察を通して、ヒトとの共通部分と異なった部分を明確にすることで、「ヒトとは何か」というテーマに迫ろうとしているのですね。麻酔によって意識を消失させたり、痛みを抑制することで、逆に「意識とは何か」、「痛みとは何か」を知ろうとする、麻酔科学に似ているかも知れませんね。
2009年5月8日金曜日
生命科学シンポジウムその1:光合成
大型連休中に、東大で開催された生命科学シンポジウムに行ってきた(http://www.biout2009.info/)。東大が生命科学のネットワークを強化するため、大学院生募集を副次目的として、一般公開しているシンポジウムです。各分野の先生が20分で自分の研究成果を一般人を相手に発表するので、いろいろと勉強になった。その一つは発表の仕方ですね。
短い時間で膨大な研究成果を発表するのは、つくづく難しいと思う。語りたいことは山ほどあるだろうに、聴衆は一般人から当該分野の研究者までの多彩な層を含むため、基本的な知識に大きな差がある。こうした場合、すべて理解してもらおうと膨大なスライドを用意すると、まずは失敗するね。今回たまたま愚息(中学生)を連れて行ったのだが、彼の反応が発表の成否のバロメータになった。「中学生にも理解できるように発表しろ」というのは実に本当ですね。中学3年生の数学と理科の知識があれば、各テーマの重要性と研究の方向性は理解できるので、発表の仕方で成否が決まります。医局のASA refresher courseの発表などでも、一所懸命、文献を読み込み勉強した人が、発表の仕方で失敗しているのをよく目の当たりにする。勉強は必要条件であって十分条件ではない。十分条件には発表の仕方が加わる。それくらい、勉強にも発表方法にも時間をかけて準備しないといけないということですね。アメリカ人は、発表している自分の姿をビデオに撮って(後ろ姿まで!)、練習するからね。僕も留学中に選択した英語のクラスで、発表の練習されられたもんなあ。まだ教室の皆さんは、発表自体の重要性を認識していないように思う。
さて、いくつか面白い発表があったので、追々報告したい。今回は、植物はなぜクロロフィルという色素を光合成に使っているか、についてです。理学部植物学講座の寺島教授は、葉っぱが光合成によって光エネルギーを効率よく得ようとするならば、葉っぱは黒色(つまり光をすべて吸収する色)であるべきだと語り、聴衆の興味をぐっと引きました。愚息まで身を乗り出したもんね。そして、葉っぱの緑色は緑色光を吸収しにくいから緑色に見えるのですが、実際は、葉っぱの内部に入った緑色光は何度も屈折して、葉っぱの裏側にある海綿状組織に吸収されるので、緑色光の吸収効率は結構高いことを示しました(勿論、緑色光以外の吸収率はもっと高いのですが...)。そして、葉っぱの表面の葉緑体の光合成はすぐに光飽和してしまうので、それ以上、白色光を強めても熱エネルギーになって散逸するだけですが、緑色光だと葉っぱの裏側まで届き、まだ飽和していない葉緑体の光合成を駆動することを示しました(http://www.biol.s.u-tokyo.ac.jp/users/seitaipl/index.html)。こうして陸上植物が、クロロフィルという緑色の(つまり緑色光を吸収しにくい)色素を光合成に使うことが、光エネルギーを取り込むためには、合目的であることを証明したのでした。パチパチパチ。
光合成について考えたのは、高校生の時以来だと思うが、大変面白く、かつリフレッシュされました。しかし実は、光合成に関する現象の大半はまだ謎だらけだそうな。これを聞いて、麻酔のメカニズムが不明なことは、科学の世界において大した問題ではないと思ったね。麻酔のメカニズムより、光合成のメカニズム解明の方がどう考えても重要だもんね。光合成こそ、自然に備わった太陽光によるエネルギー発電だから、化石燃料消滅後のエネルギー獲得にもっとも重要な研究といえるもんね。
まあ、自分がやっていることをあえて矮小化する必要はないが、たまには他分野の研究を知って、自分の分野を客観視することも重要でしょうね。東大の生命科学シンポジウム、なかなか面白いぞ、来年も行こうっと。
短い時間で膨大な研究成果を発表するのは、つくづく難しいと思う。語りたいことは山ほどあるだろうに、聴衆は一般人から当該分野の研究者までの多彩な層を含むため、基本的な知識に大きな差がある。こうした場合、すべて理解してもらおうと膨大なスライドを用意すると、まずは失敗するね。今回たまたま愚息(中学生)を連れて行ったのだが、彼の反応が発表の成否のバロメータになった。「中学生にも理解できるように発表しろ」というのは実に本当ですね。中学3年生の数学と理科の知識があれば、各テーマの重要性と研究の方向性は理解できるので、発表の仕方で成否が決まります。医局のASA refresher courseの発表などでも、一所懸命、文献を読み込み勉強した人が、発表の仕方で失敗しているのをよく目の当たりにする。勉強は必要条件であって十分条件ではない。十分条件には発表の仕方が加わる。それくらい、勉強にも発表方法にも時間をかけて準備しないといけないということですね。アメリカ人は、発表している自分の姿をビデオに撮って(後ろ姿まで!)、練習するからね。僕も留学中に選択した英語のクラスで、発表の練習されられたもんなあ。まだ教室の皆さんは、発表自体の重要性を認識していないように思う。
さて、いくつか面白い発表があったので、追々報告したい。今回は、植物はなぜクロロフィルという色素を光合成に使っているか、についてです。理学部植物学講座の寺島教授は、葉っぱが光合成によって光エネルギーを効率よく得ようとするならば、葉っぱは黒色(つまり光をすべて吸収する色)であるべきだと語り、聴衆の興味をぐっと引きました。愚息まで身を乗り出したもんね。そして、葉っぱの緑色は緑色光を吸収しにくいから緑色に見えるのですが、実際は、葉っぱの内部に入った緑色光は何度も屈折して、葉っぱの裏側にある海綿状組織に吸収されるので、緑色光の吸収効率は結構高いことを示しました(勿論、緑色光以外の吸収率はもっと高いのですが...)。そして、葉っぱの表面の葉緑体の光合成はすぐに光飽和してしまうので、それ以上、白色光を強めても熱エネルギーになって散逸するだけですが、緑色光だと葉っぱの裏側まで届き、まだ飽和していない葉緑体の光合成を駆動することを示しました(http://www.biol.s.u-tokyo.ac.jp/users/seitaipl/index.html)。こうして陸上植物が、クロロフィルという緑色の(つまり緑色光を吸収しにくい)色素を光合成に使うことが、光エネルギーを取り込むためには、合目的であることを証明したのでした。パチパチパチ。
光合成について考えたのは、高校生の時以来だと思うが、大変面白く、かつリフレッシュされました。しかし実は、光合成に関する現象の大半はまだ謎だらけだそうな。これを聞いて、麻酔のメカニズムが不明なことは、科学の世界において大した問題ではないと思ったね。麻酔のメカニズムより、光合成のメカニズム解明の方がどう考えても重要だもんね。光合成こそ、自然に備わった太陽光によるエネルギー発電だから、化石燃料消滅後のエネルギー獲得にもっとも重要な研究といえるもんね。
まあ、自分がやっていることをあえて矮小化する必要はないが、たまには他分野の研究を知って、自分の分野を客観視することも重要でしょうね。東大の生命科学シンポジウム、なかなか面白いぞ、来年も行こうっと。
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