2009年7月29日水曜日

教授って何?

■△大学の教授選が終わりました。この教授選について大きな誤解があったようで、あちこちの人から立候補してるんでしょ? と聞かれました。強く否定しても(出ていないのだから当然否定します)、○▲先生に頼まれて書類を出したんじゃないの、などといわれる始末でした。世間は教授選に秘かな興味があるんですね。ともあれ、これを契機に教授って何だろうと考えてみました。

昔は若者は背中で教育できると思っていました。つまり、一所懸命、臨床&研究していると、人は勝手についてくると思っていたのです。でもこれって、一昔前の「頑固親父の背中をみて育てる」教育法で、つまり、初期教育の放棄なんでしょうね。昔のおやぢは、時々、ビールで酔っ払った勢いで子供を叱り付けて、子供とコミュニケーションしているつもりだったのでしょうが、実際は自分の日常の憂さ晴らしだったんでしょうね。

最近では、医局員を自分の子供と同じだと思うようになりました。つまり医局員は、「社会からの預かりもの」ということですね。だから上司達がちゃんと育てて、社会に還元するという責務を負っています。その際、もっとも重要なのが、社会人になった最初数年間の教育ではないでしょうか。なぜなら、医師はPh.D.とは異なり、科学的な思考や方法論をほとんど学ばずに、いきなり社会人(研修医)になってしまいます。ですからこの研修医時代に、科学的に考え行動するクセをつけておかないと、現状の医療に疑いを持たず、あるいは「思い込み」だけで医療を行う医師になってしまうリスクがあるからです。研修医時代にこそ、人間という複雑な対象に畏れと尊敬の念を持ち、できる限り客観的に観る(診る)姿勢を学ぶべきです。逆説的には、医師になった最初のうちに、自分達が人間について、実は何も知らないということを十分に知る必要があります(?!)。 5年前から始まった初期研修制度は、少なくともこの点については失敗で、現存の技術だけを習ったらいい医者になれるという錯覚を若者に与えてしまったように思います。

さて、何より大学教授こそが、人間は人間について何も知らないということを研修医に教える使命があると思います。なぜなら、「人間とは何か?」と問いかけ続けているのが、教授を筆頭とする大学教官で、自分達がいかに人間について知らないかを、実は一番よく知っている人達だからです。勿論、どんな人でも、人間って何なのだろうと、秘かに問いかけていると思います。しかし、教授あるいはPI(Principal Investigator:研究室の主宰者)こそが、世間に向かって照れずに(これが結構重要だと思います)「人間って何?」と問いかけることができる数少ない職業だからです。そして、こんな青臭いことを問い続ける人は、社会にとって有益性に乏しい人達なので、教授選考をして絶対数が増えないように規制されているのかも知れませんね。

それでも、世の中には「人間って何?」と問い続けないと生きていけないタイプの人が(多分)います。そんな変人が社会の片隅で、それなり尊厳を保ってに生きていくためには、教授やPIを目指すしかないのですよ。勿論、現在においても教授を目指す動機が、「偉そぶりたい」という人がいるのも事実です。しかし残念ながら、時代は変わりつつあり、すでに社会は偉そぶりたい教授を必要としていないと思いますね。それに、偉そぶるためには情報の独占化が不可欠ですが、インターネットの時代になって情報の独占は不可能ですから、白い巨塔は遠い昔となりました。

繰り返しますが、教授やPIになれば、「人間って何?」と問いかけ続けるタイプの人でも、世間から変人扱いされな いで生きていけるという利点があります。他方、教授やPIとは、結局、教育者としてご飯を食べている職業ですから、次世代の若者を教育し、鼓舞し奮起を促さなくてはなりません。しかし、若者の教育は苦労が多く責任も重い反面、大変楽しい作業でもあります。いつまでも若者から元気を貰えるしね。

だからさぁ、PIや医学部教授を目指すという、今となっては変わりものの若者が増えてくれないかと願っている訳です。水と空気の美味しい、風光明媚な地方大学のPIや教授って、案外いい職業だと思うんだけどなぁ。そんな若者が増えてくれたら、僕はとっとと引退してフリークライミングと沢登りに専念したいと考えているのですが...

2009年7月20日月曜日

情動と認知の痛み

6月はいろいろと忙しくて、ブログの更新できなかったので、申し訳ありませんでした。

さて、ペインクリニック学会と疼痛学会合同の名古屋ペイン2009(名古屋)に行ってきました。両学会が合同に開催するようになってから、臨床と基礎の交流がうまくいくようになって、学会の雰囲気がアメリカ疼痛学会のようにオープンで、学際的になってきたように感じます。日本の疼痛治療も、ペインクリニック治療=神経ブロックという雰囲気から、痛みの機序を推定しながらinterventionや薬物療法を行う方向へと変化しつつあるように感じて、僕としてはうれしく感じます。まあ異論もあるでしょうが。

なかでも、慈恵医大生理の加藤教授が、講演の最後に仰っていた内容が興味深かったです。外敵から襲われると、その痛みや外敵の臭いを記憶し、不安、恐怖、不快といった負の情動を保持する。そうすると、二度とそうした危険が及ぶ環境に身を置かなくなり、生存確率が増えるという考え方です。つまり、情動の起源を、生体警告系に対する神経系応答(痛みの知覚面のことですね)の記憶に関連する体験として捉えようとする考え方ですね。これは新たな考え方かも知れません。この考え方では、痛みの認知面と情動面(=不快)が、記憶を介して密接に繋がっていることが容易に了解できますね。そうすればもしかしたら、逆に「快」という情動とは、進化の過程において、身の安全が確保されて、食料の心配が少なく、子孫をより残せる確立が高い環境にあった時の、記憶に関連した神経活動ということになるかも知れませんね。 この「快」の延長線上に「愛」があるのかも知れません。

15年くらい前、某大学の生理学の教授から、「21世紀は愛を生理学で解き明かす時代だよ、痛みのような原始的な感覚の解明では、いずれ時代遅れになるよ」と言われたことを覚えています。確かに加藤教授の扁桃体での素晴らしい研究を聞いていると、「快」、「不快」から、さらに「愛情」や「意識」といった問題についてまで、生理学が解き明かせる時代が、もうそう遠くはないようにも思います。冗談ではなく、本当に「愛の生理学」の時代が来ているのかも知れませんね。