2011年10月10日月曜日

4年経ちました

2007年10月10日、札○医大図書館で論文を読んでいた僕のPHSに、信州大学医学部長△橋教授(当時)から教授選考結果を知らせる電話がかかってきました。あれから今日で丁度4年経ちました。あっという間の4年でした。

論文を読んで患者を診る。思索を重ねて論文を書く。論文を読んでネズミに聞く。思索を重ねて論文を書く。また論文を読んで患者を診る...この繰り返しを一生淡々と行うのが医者の努めと信じて生きてきました。しかし赴任直後、ある医局員に「論文ばかりを言う教授にはついていけないな」と目の前で手術用手袋を床に叩きつけられた時に、僕の常識が通用しない世界に来たことを知りました。

赴任後、医局の秘書さんには、「先生、ここには医局で勉強するような医局員はいませんよ。」、「ここでは外国論文を取り寄せたり、英語論文を書いたりする医局員は出ませんよ。」と言われました。確かに夜7時に外勤から帰ってくると、臨床研究棟は麻酔科医局の周辺だけ真っ暗でした。赴任後半年間は、ほどんど誰とも夜の医局で出会うことはありませんでした。今では真夜中や土日祭日でも実験をしたり、論文を読み書きする医局員が多くなりました。それでも僕は、赴任直後の秘書さんの言葉を肝に銘じています。医局を活性化し続けるのが僕の唯一の役目だと信じるからです。

信州大学で肝移植を始められた●内先生の回顧文(肝移植施行20周年記念業績集:医局図書にあります)にこう書かれています。「臨床は患者さんのニーズに応じて行っていくもので、それは淡々と粛々として行われるべきことです。また他人が行っていないことを初めて行うには論理的根拠、エビデンス、そして技術的背景と工夫が必要です...。」 当たり前のことですが、まさにそれを実践されてきた●内先生の文章なので含蓄があります。

論理的根拠とエビデンスのために「論文を書く」という作業が不可欠です。論文なき医療は呪術と同じだからです。でももうこんなことは、医局の皆さんに言わなくてもよくなりましたね。思えば僕が入局した札○医大麻酔科も、20数年前は荒廃しきっていました(失礼!)。論文を読む人も書く人もほとんどいなかった...。そこで危機感を持った若い医局員たちが切磋琢磨したのです。そして個々の医者の成長と医局の成長とが合致し、うまく発展できた稀なケースだったのだと思います。しかし過度で不当な競争は、個人だけでなく組織から真の理念-医者として失ってはならない信念や良心-を奪うことがあると肝に銘じなければなりません。

この4年間で僕が何より嬉しく感じるのは、信州に臨床と研究のバランスの取れた人が育ってきたことです。「いい臨床医を育てる。そのための臨床 & 基礎研究であり、必ず臨床に反映させなければならない。」という信念が実現しつつあることを大変嬉しく思います。学会発表数や論文数を競っても仕方がありません。どこに出しても恥ずかしくない、研究心を持った臨床医を一人でも増やしたい。次の4年に向けて粛々と医局の皆さんが成長できるようサポートしていきたいと思います。

最後になりましたが、●内先生は次のようにも書かれています。『...赴任直後、まじめそうな若い医局員から、「先生、余暇には何をされますか?」と聞かれました。僕には余暇という概念がなかったので、びっくりしていささか返答に詰まりました..。』 確かに僕も医者になって以来、余暇という概念はありませんでした。しかし仕事から解放され、とことん遊ぶ余暇は確かに必要だと思います。それでも若い医局員には、たとえ大学にいる数年間だけでも、人生を賭して臨床や研究に没頭して、数多くの無駄な夜昼・祭休日を過ごして欲しいと願っています。そんな無数の夜や祭日を経て人は成長し、そんな無数の人生が集まってこの世は成り立ち、人類は進歩してきたのだからね。きっと皆さん,医者として人間として成長できると思うよ。

本ブログは当初の役目を終えたので、新たな方向性を持たすまで休止します。また再開した時は宜しくお願いします。

2011年7月3日日曜日

震災の年の研修医マッチングを前に

今年も研修医マッチングの時期が迫ってきました。勿論、信州大学のプログラム選択者数は気がかりですが、今年は、東北/北関東の医学部卒業者がどこを研修先病院に選ぶか気になります。少し引用が長いですが、ある新聞の論説で以下のように書かれていました。「...東日本大震災は日本列島の国土のあり方に大きな変更を迫っている。いろいろな意味での国土の分散化が必要であるし、それぞれの地域が独立した存在としての実力を蓄えていることが期待されている。...(中略)...日本の医療は既得権益と前例に縛られて、身動きが取れなくなっている。東北地方の医療は、そんな不自由な「本土並み」医療に戻してはいけない。大胆な医療の地域再編を行い、情報化などの分野で最先端の仕組みを導入し、地域医療の先端事例を作り上げてほしい。創造的破壊という言葉があるが、破壊を素晴らしい創造に結びつけたいものだ。」(産経新聞 伊藤元重)

どんな組織であれ、時代とともに必ずシステムが硬直化し、いずれ創造的破壊が必要となります。しかしシステムを作った当事者が破壊に向かうのは難しいため、破壊のためには既存の考えにとらわれない、若い力を結集することが不可欠となります。そして破壊だけではなく、創造をセットとして行うためには、創造した結果に責任を持つ者が、その任に当たらなければなりません。こうして唯一、若者だけが創造的破壊を達成できるのです。

東北/北関東の医学生が卒後、東北/北関東の医療再生に邁進するかどうか、日本再生の試金石かも知れません。そして東北に限らず、各地の医学部卒業生が、それぞれの地域の医療再生を目指し創造的破壊に邁進することこそが、この国の医療再生には不可欠です。

僕は震災の年である今年から医学生の意識が変わり、卒業大学に留まり地域の医療再生を目指す若者が増えるではないかと思っています。決して大多数ではないかも知れない。しかし確実にそうした若者が増えていくと願っているのです。有名病院?の意味不明な「有名」という文言には見向きもしない、長期的な展望を持った若者が増えて欲しい。

それでもやっぱり今年も、大震災なんか無関係とばかりに、初期研修先に都市部の有名病院を志望する地方医学部卒業生が多いのでしょうか。しかし、それはまだいい方かも知れない。今回の震災の後でも、2年間の夏休みとして称して、観光気分で沖縄や北海道を初期研修先に選ぶ人たちがいるのでしょうか。今後もこうした傾向が続くのなら、この国の復興などありえない。その時私たちは、国の将来を託すべき若者をなくしたという、厳しい現実に直面するのかも知れません。

これから数ヵ月間、今年の研修医マッチングの結果を、僕はドキドキしながら見ることになると思います。

2011年5月23日月曜日

よかったね!

第58回日本麻酔科学会(神戸)が終了しました。今回の学会で、K先生が麻酔科学会の最高のY記念賞を受賞し、M先生が学会総会最優秀演題賞(神経部門)を受賞しました。F先生の演題も優秀演題にノミネートされ、1位と僅差だったそうなので最優秀演題と同等と思っています。夜遅くや土日を潰して研究されてきた成果で、他の教室の方々にも大いに励みになったと思います。

1-2年の努力で最優秀演題を貰い、3-5年の努力で麻酔科学会の若手賞を貰い、10年の努力でY記念賞を貰う...そんな目標を持つ人が出てきてもいいのではないでしょうか。但し、賞は目的ではなく、僕たちの日々の努力に対する、ちょっとした励ましなのだと思います。

僕たちにとって、手術室/ICU/ペインクリニック/実験室が宇宙のすべてです。僕が信州に赴任した3年半前、「若い時期にこの小宇宙で真実を求めて努力し、成果を世界に問うてみないか」と医局の皆さんに提案したつもりです。その時の私の発言を、どれだけの方々が理解してくれたのか、甚だ心もとない時期がありました。紆余曲折がありました。そしてようやく昨年あたりから、夜や土日を潰し、自分の人生を潰して、何かを生み出すことに意義を見出す人が出てきたと感じるようになりました。今回、その何人かが賞をもらったり、賞に手が届きそうになったことを、大変嬉しく感じました。そして、賞や学術成果に限らず、教室の皆さんがそれぞれ前向きに、皆さんの高みを目指して欲しいと願います。

麻酔科学会の会場で見た教室の皆さんの表情が自信に溢れており、僕は何故か少し照れくさい気持ちを感じながら会場を後にしました。そのせいか、今回の文章は柄にもなくストレートになってしまいました。みんな、本当によかったね。

2011年4月25日月曜日

3割 vs. 7割

「日本の人口の約7割は首都圏でないところに住んでいる。そして、自分が住んでいるところが東京ではないということを日々意識している。しかし、東京の住民は地方のことなどほとんど考えていない。(中略)なんとか対抗しようと力をふるっている「地方」もある。関西圏はなかなかがんばっているし、わが沖縄は芸能で抜きんでている。北海道には自然がある。信州には山と教養がある。」(池澤夏樹 -虹の彼方に-)

最近、この池澤夏樹の言葉を実感する出来事がありました。ある製薬会社の方がやってきて、「小さな研究会に、先生の教室の後期研修医の方が参加できるように手配しました。まずは月曜日の夜、東京のX大学麻酔科の教授と医局長が、○▲ホテルでの豪華なディナーにお付き合いしてくれます。翌日、X大学早朝カンファレンスから参加して、手術室見学、講演、昼食、午後からペインクリニックを見学して、夕方に解散です。」というのです。「ウチが全面的にバックアップしており、後期研修医数名の枠を確保しましたので是非御参加下さい」と、ニコニコと笑顔を浮かべていうのです。

この企画は、要はX大学麻酔科の後期研修医向けの入局説明会を、製薬会社の全面的なバックアップのもと行う、ということですね。そもそも全身麻酔の研究会でなぜペインクリニックの見学が必要なのでしょうか。全国の初期研修医を集めて麻酔科の魅力を伝えようとするのならまだしも、すでに麻酔科を専攻している地方大学の若手麻酔科医を東京に引っ張ろうとするX大学麻酔科と、それを積極的に支持するこの製薬会社とは、一体何なのでしょうか。この企画自体に吃驚したのですが、「これではまるでX大学麻酔科の入局説明会ですよ、しかも平日に信州大学の手術を制限してまで、後期研修医を参加させることができる訳ないじゃないですか」と伝えると、担当者は僕の発言の意味を理解できず、困ったような笑顔を見せているだけでした。

つまりこういうことです。この製薬会社は東京ばかりを見ていて、信州はもとより地方をまったく見ていない。そして、自分たちが「見ていない」ということが、すでに「わからなくなっている」。多分この担当者は、何故僕が怒ったか、今でもわかっていないと思います。東京が地方のことなど考えていないというのは、こういうことです。蹂躙され続けた地方は地団太を踏んでいるのですが、東京には地団太の音すら聞こえない...

ここ百年、日本は中央が地方を侵食するというかたちで進んできました。この基盤は、戦後は独裁政治や牙むき出しの資本主義ではなく、大衆消費社会という一見マイルドな体制でした。だから却って始末が悪かった。その大衆消費社会の基本概念を単純化すれば、幸福はお金で買えるはずというものです。しかし、他人の持っていない価値あるものを買っても、幸福は得られず僅かな満足しか得られなかった。そして、すぐに他人も価値あるものを手に入れたので、価値あるものの価値はなくなった。こうして、日本人はさらなる満足を求めて価値あるものを買おうと彷徨い始めた。地方に工場をおき、上前を撥ね、その工賃が高くなると海外に工場を移し、海外からも上前を撥ねた。気がついたら東京一極化と地方の空洞化だけが残った。心ある人たちはこの先にはどうやら幸福がなさそうだと気づき始めたが、それでも幸福は無理でも満足感だけは得られるのでないかと、今だに首都圏にしがみついている人たちが多い。特に昨今、将来への不安が蔓延すればするほど、目の前の満足感(そんなものあるのか!?)を求めて、首都圏に人は集まり続ける.... これが僕の大雑把な戦後日本社会の認識です。

僕が医者になりたての頃、21世紀には医者が単なる技術屋になるという識者がいました。残念ながら当たっていましたね。医者がヒトの体や病気の本質のことを考えないで、専門医だ、ガイドラインだと、自らを技術屋へと貶めるようになると、医療/医学が単なる商売道具になって、X大学と製薬会社のようなことが起こり始める。医療/医学の世界においても、東京が地方を侵食し始めるのです、いやもとい、侵食できると思い始めるのです。

まあ勝手に思っていてください。医者が生体の病気/病態の不思議を研究し、考え続ける限り、技術屋にはなり下がらず、科学者として踏みとどまれるはずです。そして、生体の中の不思議を解明するのに、東京も地方もないのです。そして何より、地方には地方の意地があります。ニュートンもダーウィンも田舎にこもって大発見をしたのです。

この製薬会社担当者と会った数日後、土曜日早朝の実験/研究カンファレンスに、10名以上の医局員が集まって議論しているのに目の当たりにして、信州の若者たちを大変誇らしく感じて、久しぶりにちょっと感動したのでした。

2011年3月22日火曜日

火の発見から50万年

福島第一原発事故のような事態に陥ると、ほら言わんこっちゃない、再臨界→チェルノブイリ→日本の終末と喧伝し煽る人たちがいます。逆に、今回の事故はむしろ、日本の原発が安全であることを証明していると、事故を過小評価する人たちもいます。最終的にはこの悲観論と楽観論の間のどこかの地点で収束するのでしょうが、その地点がどこかを予想するのは難しいでしょうね。

腹腔内の感染は何とか制御できたので、ARDSと腎不全を何とかしようとしていたら、ある日突然、吐血と後腹膜膿瘍でお亡くなりになって、結局、どうしてそうした事態になったのかさっぱりわからなかった、なんてことをしばしばICUで経験しました。勿論、原子力工学と臨床医学(しかもICU!!)を比較できないことは十分承知しています。しかし量子力学は確立された学問体系でしょうが、原子力工学は応用科学で、ましてや原子力発電所は、われわれの臨床に似た経験主義的な現場でないかと推察するからです。つまり経験科学においては、そもそも予期できないことは設定できないのです、当たり前ですね。

ウランをアルコールランプで1ヶ月炙ったら何が起きるか、なんて誰にもわからないと思うのです。アルコールランプは1000℃を超えないので、多分、恐らく、きっと臨界には達しないはず、でも水蒸気で湿度100%になって、水素濃度が上昇して、他の可燃物があったらどうなるか。たとえ臨界にならなくとも、炉が破損して水素爆発して、使用済み核燃料も水蒸気に混じって飛散し続けて3週間たったら...それでも関東は安全か。

現時点は、まさにこうした想定外の事態に、想定外の方法で対処しているので、誰もその結果を予想ができないのではないかと思います。まずは想定されていない状況から、想定された範囲内の危機までに回復させないと、事態の収拾が見えてこないということです。しかし想定されない状況で取らざるを得ない、規定からはずれた手法は事態を一部では回復させるものの、想定されない別の結果も引き起こす可能性があるはずです。これは、言葉遊びのつもりではありません。医療に限らず、原子力発電所を含め、すべての「現場」がこのように動いていると思うのです。

人類が開発した発電方法なのだから、いざとなれば人類がコントロールできるはず、いや少なくとも専門家が考えた通りの結果で収束するはずと思いたいのですが...そんなに単純ではないはずです。だって、ヒトは50万年前に火を発見しましたが、今でも日本で年間3000人弱の方が火事で亡くなり、世界的にも(恐らく)5-6万人以上の方が火事で亡くなっているので、50万年経ってもまだ人類は火を十分にコントロールできていない現実があるからです。まして況や原子力をや...でしょうね。

世界で年間何万人もの方が亡くなる火事という大災害は、日常で使用している火が原因なので、必要最小限の煮炊きと暖房にだけ火を使えば死亡者は激減するはずです。しかし人類は火の使用を制限しないで、火事になった後の消火・消防というシステムで対処してきました。これは今後、日本で原子力発電を再考する際に、重要なポイントになるような気がします。

いずれにせよ、まだまだしばらく不安な日々が続くと思います。現場で頑張っている皆さんの努力を尊崇して、よい結果を祈りたいと思います。

2011年3月17日木曜日

日本復興の先兵となれ

今、この国に必要なメッセージを、ある高校の校長先生が出しています。僕たちが選んだどうしようもない政府に頼らず、僕たちは今、このメッセージから日本の「復興」をスタートすべきだと思います...

http://niiza.rikkyo.ac.jp/news/2011/03/8549/


(上のリンクが切られた場合用に、以下にコピー)
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卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ(立教新座中学校・高校HPより)


諸君らの研鑽の結果が、卒業の時を迎えた。その努力に、本校教職員を代表して心より祝意を述べる。
また、今日までの諸君らを支えてくれた多くの人々に、生徒諸君とともに感謝を申し上げる。

とりわけ、強く、大きく、本校の教育を支えてくれた保護者の皆さんに、祝意を申し上げるとともに、心からの御礼を申し上げたい。

未来に向かう晴れやかなこの時に、諸君に向かって小さなメッセージを残しておきたい。

このメッセージに、2週間前、「時に海を見よ」題し、配布予定の学校便りにも掲載した。その時私の脳裏に浮かんだ海は、真っ青な大海原であった。しかし、今、私の目に浮かぶのは、津波になって荒れ狂い、濁流と化し、数多の人命を奪い、憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である。これから述べることは、あまりに甘く現実と離れた浪漫的まやかしに思えるかもしれない。私は躊躇した。しかし、私は今繰り広げられる悲惨な現実を前にして、どうしても以下のことを述べておきたいと思う。私はこのささやかなメッセージを続けることにした。

諸君らのほとんどは、大学に進学する。大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。大学に行くことは、他の道を行くことといかなる相違があるのか。大学での青春とは、如何なることなのか。

大学に行くことは学ぶためであるという。そうか。学ぶことは一生のことである。いかなる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。一生涯辞書を引き続けろ。新たなる知識を常に学べ。知ることに終わりはなく、知識に不動なるものはない。

大学だけが学ぶところではない。日本では、大学進学率は極めて高い水準にあるかもしれない。しかし、地球全体の視野で考えるならば、大学に行くものはまだ少数である。大学は、学ぶために行くと広言することの背後には、学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあるといってもいい。

多くの友人を得るために、大学に行くと云う者がいる。そうか。友人を得るためなら、このまま社会人になることのほうが近道かもしれない。どの社会にあろうとも、よき友人はできる。大学で得る友人が、すぐれたものであるなどといった保証はどこにもない。そんな思い上がりは捨てるべきだ。

楽しむために大学に行くという者がいる。エンジョイするために大学に行くと高言する者がいる。これほど鼻持ちならない言葉もない。ふざけるな。今この現実の前に真摯であれ。

君らを待つ大学での時間とは、いかなる時間なのか。

学ぶことでも、友人を得ることでも、楽しむためでもないとしたら、何のために大学に行くのか。

誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。

大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。

言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためでなないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。

中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。

大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。

大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。

池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。

「今日ひとりで海を見てきたよ。」

そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。

悲惨な現実を前にしても云おう。波の音は、さざ波のような調べでないかもしれない。荒れ狂う鉛色の波の音かもしれない。

時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。

いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。

いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。

海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。

真っ正直に生きよ。くそまじめな男になれ。一途な男になれ。貧しさを恐れるな。男たちよ。船出の時が来たのだ。思い出に沈殿するな。未来に向かえ。別れのカウントダウンが始まった。忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな。

鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。愛される存在から愛する存在に変われ。愛に受け身はない。

教職員一同とともに、諸君等のために真理への船出に高らかに銅鑼を鳴らそう。

「真理はあなたたちを自由にする」(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース)・ヨハネによる福音書8:32


一言付言する。

歴史上かってない惨状が今も日本列島の多くの地域に存在する。あまりに痛ましい状況である。祝意を避けるべきではないかという意見もあろう。だが私は、今この時だからこそ、諸君を未来に送り出したいとも思う。惨状を目の当たりにして、私は思う。自然とは何か。自然との共存とは何か。文明の進歩とは何か。原子力発電所の事故には、科学の進歩とは、何かを痛烈に思う。原子力発電所の危険が叫ばれたとき、私がいかなる行動をしたか、悔恨の思いも浮かぶ。救援隊も続々被災地に行っている。いち早く、中国・韓国の隣人がやってきた。アメリカ軍は三陸沖に空母を派遣し、ヘリポートの基地を提供し、ロシアは天然ガスの供給を提示した。窮状を抱えたニュージーランドからも支援が来た。世界の各国から多くの救援が来ている。地球人とはなにか。地球上に共に生きるということは何か。そのことを考える。

泥の海から、救い出された赤子を抱き、立ち尽くす母の姿があった。行方不明の母を呼び、泣き叫ぶ少女の姿がテレビに映る。家族のために生きようとしたと語る父の姿もテレビにあった。今この時こそ親子の絆とは何か。命とは何かを直視して問うべきなのだ。

今ここで高校を卒業できることの重みを深く共に考えよう。そして、被災地にあって、命そのものに対峙して、生きることに懸命の力を振り絞る友人たちのために、声を上げよう。共に共にいまここに私たちがいることを。

被災された多くの方々に心からの哀悼の意を表するととともに、この悲しみを胸に我々は新たなる旅立ちを誓っていきたい。

巣立ちゆく立教の若き健児よ。日本復興の先兵となれ。

本校校舎玄関前に、震災にあった人々へのための義捐金の箱を設けた。(3月31日10時からに予定されているチャペルでの卒業礼拝でも献金をお願いする)

被災者の人々への援助をお願いしたい。もとより、ささやかな一助足らんとするものであるが、悲しみを希望に変える今日という日を忘れぬためである。卒業生一同として、被災地に送らせていただきたい。

梅花春雨に涙す2011年弥生15日。

立教新座中学・高等学校
校長 渡辺憲司
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2011年3月5日土曜日

ささやかな幸せ

冬になると、自宅のロフトから、常念岳とその横っちょにチラッと槍ヶ岳のピーク(黒矢印)が見えます。別にそれだけのことなんですが、この「ちょっこっと槍ピーク」が見える住宅地は、松本市内では僕の自宅周辺だけなのですね。だから僕はこの地に家を建てることにしたのです。僕にとってはささやかな幸せです。













しかしまあ、どうしてヒトは高いものを見ると嬉しくなるのでしょうか。東京スカイツリーの建造現場に連日、大勢のヒトが集まっているそうだしね。サルは外敵から襲われないように高い木に登って寝るので、その時見た風景が記憶に残っているのでしょうか。あるいは高い所に登って、餌を探していたそうなので、高い所→生存確率高くなる→快・幸せ、となって、高い所に登らないで下から見上げるだけでも、高い所にいる自分を想像して、幸せな気持ちになれるのでしょうかね。


ところでまったく別の話ですが、先日、上高地に行った折、冬なので餌がないのか、梓川で「ざざむし」を取って食べているサルを見つけました(写真下左)。われわれヒトはサルの頃から、山間部では蛋白源として「ざざむし」を食べていたんだと、妙に納得したのでした。川の中のサルを見てると、とても美味しそうに「ざざむし」を食べておりました。写真(下右)からは、エビやシャコに似ているように思うので、これらの活造り様の味でしょうか。信州に来て「ざざむし」は食べたことがないので、今度トライしてみますかね。


2011年3月1日火曜日

四度 信州酒蔵ツアー

山女や(http://restaurant.gourmet.yahoo.co.jp/0004484262/review/detail/4/)の○子さんの主催で、4回連続で宮島酒店(http://www.miyajima.net/)の酒蔵見学に行って参りました。年々参加数が増えて、チャーターバスが大きくなって、今年は30名弱の方々が参加されました。

昨年、宮島酒店の社長さんが信州大学で手術をされて完治されたそうで、その時、当科の▲野先生が麻酔を担当した話が出ました。参加者も毎年、歳とっていくので、これからは病気や入院の話も出てくるのでしょうね。それにしても、同じ高校の同じクラブの先輩と後輩が患者さんと麻酔科医として対面し、また酒蔵ツアーで、酒造り側と試飲側で、何事もなかったかのように顔を会わせているのも、なかなか面白い関係といえます。

信州には沢山の酒造メーカーがあるので、新酒の試飲の会も沢山あると思います。しかし元信州大学の△川先生を囲む会として始まったこの会は、△川先生、山女やの○子さん、信州大学の■澤先生、そして宮島酒店の社長さんのお人柄で、試飲の会を超えた会になってきたように思います。鍋□株式会社の方々や、医局旅行でお世話になっている黒□先生とも、毎年この会でお会いし会話が弾みます。宮島酒店の美味しいお酒で酔っ払った頭でぼんやりと考えて、どうやらこの会が同窓会のような雰囲気になってきたように思いました。今年は教室の若い女性2名も参加してくれたので、老若男女が混じった同窓会という雰囲気です(下写真-写真の許可を全員から貰っていないのでぼかしたつもり)。

来年も酒蔵ツアーに行きますので、是非とも同窓会的なこの会に、大勢参加してくださいな。

2011年2月22日火曜日

スノーシューを履いて上高地

麻酔科山岳部の初冬山行として、学生諸君と一緒にスノーシュー/ワカンを履いて上高地に行って参りました。晴天の穂高がとてもきれいでした(下写真上)。釜トンネルの中が一番寒くて真っ暗で(下写真中)、つらかった。しかしトンネルを抜けるとまさに上高地の雪の中で、素晴らしい景色が待っていました(下写真下)。

上高地は冬でも沢山の人が入山するようになり、今回もスノーシューを持った中高年の姿が目立ちましたね。確かに雪の上を歩いても沈まないので、平坦な場所での雪上歩きが楽しめます、こりゃ病みつきになりますね。ただ斜面を登っていてバランスを崩して後退しようとしたら、ひっくり返ってしまいました。やはり日本の冬山の急斜面のラッセルでは、ワカン+アイゼンが便利な気がしましたね。でも今後の人生で、冬山の急斜面をラッセルする予定はないので、スノーシューを購入しようと思いましたね。今回は医学部山岳部のをお借りしたので...

それにしてもスノーシューという名称は困ったものです。スノトレ、スノーシューズ、スノーシューと、名称は似ているのに、それぞれ示すものが違います。スノトレは北海道で僕も履いていました。スノートレーニングシューズ/スノートレッキングシューズの略ですね。スノーシューズはごわっとしたブーツあるいは長靴でしょうか。スノーシューは日本語としては、前半の「スノー」のsyllableにアクセントを置きつつ、少し伸ばして発音するようです。でも英語としては、後ろのsyllableの'shoes'にアクセントがありそうだし、何よりa pair of snowshoesと複数形にしないと欧米人には通じないだろうし(http://en.wikipedia.org/wiki/Snowshoe)。そこで提案です。もっとかっこいいスノーシューの名称を考えましょう。僕はsnow-floats、あるいはsnow-striderがいいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。忍者が水の上を歩く時に履くのがfloatsだそうです。water-striderがアメンボなので(下写真)、いっそsnow-amemboとでもした方がいいかも知れません。でもその場合、やっぱり正確にはa pair of snowamembosというのだろうなぁ。ということで、次回は王ヶ頭ホテルまで行って、美ヶ原をsnowamembosを履いて散策する予定です。春までには何とか時間を作りたいものですね。

2011年1月13日木曜日

(再び)世の中まだまだ捨てたもんじゃない

信州大学麻酔科のK先生が、日本麻○科学会のもっとも権威あるY賞を受賞しました。まだ正式公表される前なので内緒にしてて下さいね...(といってもここに書いてしまいましたが...)。本当によかった!! おめでとうございます。世の中まだまだ捨てたもんじゃないね。今回の受賞となったK先生の仕事の大半は、前任地の札□医大でのものですが、これらを基盤に現在も信州で研究が継続・発展されているので、信州の皆さんの大いなる励みになると思います。信州大学麻酔科の2011年の一大ニュースですね。

K先生は10年近く前のある日、元ボスに呼ばれて緩和医療のチーフになるよう言い渡されました。教授室から出てきたK先生は真っ青な顔をしていたように思います。当時の麻酔科医にとって、「緩和医療に従事せよ」というのは、「北極圏のシロクマになれ」と言われるのに等しかったものね。つまりナンバーワンかも知れないけれど、氷で閉ざされた極寒の地しか与えられず、麻酔科医が住む温暖な世界からは遠く離れた荒地だったからね。

K先生はとても口惜しかったと思います。それでもやる気をなくさないで、むしろ逆境をチャンスに変えました。緩和医療という経験則だけの「北極圏医療」を、学問・サイエンスに発展させることをライフワークに据えて、その後、奮闘努力されてきました。夜中や土日を潰して、黙々と癌ネズミで実験を重ねて、業績を挙げてきました。ですから今回の受賞は当然だと思います。しかしそんなK先生ですらすんなりと受賞できず、落胆したこともあったと思います。

しかし今回の決定で、日本麻○科学会を見直しましたね。日本麻○科学会学術委員会は、ギリギリちゃんとしているじゃあないか!! もう1-2年早ければ、もっとよかったのですが、今回は受賞者が2名とのことですので、内部で喧々諤々の議論があったのかも知れません。だからこそ、今回、K先生を推してくれた選考委員会の見識に心から敬意を払います。本当にありがとうございました(本来、僕が言うべき立場ではないでしょうが...)。

夜中や土日に、誰もいない実験室で一人実験をしていると、真っ暗闇の山の中を一人で彷徨っているような不安な気持ちになります。自分の彷徨は意味のある行動なのだろうか、目指す尾根を大きく間違えているのじゃないだろうか、この道の先に本当に光はあるのだろうか...等々。人がやらないテーマだからこそライフワークになりうるのですが、人がやらないことに没頭し、かつ、その作業を継続するためには、絶えず自分の中の孤独感や不安感と闘わなければなりません。あまりに孤独な時間が長すぎると、進むのを止めて下山したり、自分の思い込みで進路が大きく逸れていくことがあります。ライフワークが成就しない所以です。だから時々、「君は間違っていないよ、自分を信じて進みなさい」と誰かに励ましてもらう必要があります。そのために僕たちは「教室」というグループを作り、その内部の仲間同士お互い励まし合い、勇気をもらったり、逆に与えたりしながら、切磋琢磨していかなければならないのだと思います。

賞がすべてではありません。しかし挫けそうになった時、賞を貰うことで再び奮い立つことができるかも知れません。改めて孤独に耐えて、ライフワークに邁進していく勇気が貰えることがあるかも知れない。モーパッサンがいうように「才能とは持続する情熱」です。人には元来、能力差はありません。情熱を持続できるかどうかが分かれ目です。賞を貰うことで情熱が持続すれば、賞を貰う意味があったというものです。

今回、日本麻○科学会によって、K先生や信州大学麻酔科に、研究を継続していく勇気と情熱が与えられたのだと思います。本当によかった、おめでとう!! そして再度、選考委員会に心から感謝したいと思います。ありがとうございました!!

2011年1月7日金曜日

我あり、故に我思う

たまには読んだ本のことでも... 

正月休みに、デカルト関連の本を2冊読みました。『デカルトの誤り』(Descartes' Error)(http://www.amazon.co.jp/%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E8%AA%A4%E3%82%8A-%E6%83%85%E5%8B%95%E3%80%81%E7%90%86%E6%80%A7%E3%80%81%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AE%E8%84%B3-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AA%EF%BD%A5R%EF%BD%A5%E3%83%80%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%82%AA/dp/4480093028)と、

『デカルトの骨』(Descartes' Bones)(http://www.amazon.co.jp/%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E9%AA%A8-%E6%AD%BB%E5%BE%8C%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%A8%98-%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%88/dp/4791765753)です。

近代医学は、勿論、デカルトの心身二元論をベースにしています。また、デカルトはアリストテレス以来、情動の一種とされた「痛み」を知覚情報として捉え直しました。『デカルトの誤り』は、神経科学者の著者ダマシオが、こうしたデカルトの二元論を誤りと断じた本です。ダマシオによると、生体では心⇔脳⇔身体、そして環境との相互作用がダイナミックに起こっています。そして感情と理性は、いずれも身体の状態と深く関わった対等な脳の活動とされ、それぞれが身体状態へも影響を与えます。

生体は進化の過程で、ホメオスタシス維持のために、まずは自律神経と内分泌系を発達させましたが、このホメオスタシス維持に情動・感情が重要な役割を行っているというのが、この本の核心部分です。「進化の過程では脳のない生物は存在したが、脳や心があって身体のない生物は存在しなかった」という言葉で、Damasioの考え方が代表されます。身体と脳・心を(そして情動や理性を)分離できないということですね。「理性があるから私(身体)がある」のではなく、「身体があるから(私がいるから)、理性がある」ということですね。「我思う、故に我あり」ではなく、「我あり、故に我思う」という主張です。この本では、さらに合理的意思決定にも、心-脳-身体のダイナミックな相互作用が不可欠であるという主張など、斬新な作業仮説が一杯詰まった本でした。面白かった。

一方、『デカルトの骨』は、宗教改革・ルネサンスを経てデカルトが出現した時代背景や、デカルト主義によりフランス、イギリス、オランダ、スウェーデンなど当時のヨーロッパ諸国に激震が走り、デカルトの思想が最終的にはアメリカ独立、フランス革命の遠因になったことが書かれており、これまた大変面白かったです。確かに「思想」はあっという間に空気として世界中に広がり、時代を席巻していきますからね。

個人的に狭義な興味としては、『デカルトの誤り』の中で、アルメイダ・リマが慢性痛の治療に、前頭前野切載術(prefrontal lobotomy)を応用していたことを知りびっくりしました(Lima. Med Contemp 1952;70:539-542) (http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/13012693)。リマは、エガス・モニス(http://en.wikipedia.org/wiki/Ant%C3%B3nio_Egas_Moniz)に協力してロボトミーを開発したポルトガルの外科医です。モニスはこのロボトミーの功績(?)により、1949年ノーベル医学生理学賞を受賞しましたが、その後、この受賞が大きな問題となりました。後年、モニス自身が、ロボトミーを施行した患者の恨みのため、銃で撃たれてしまったくらいですからね。

痛みの研究者は、島(insula)や帯状回の障害で、知覚的に痛みは感じるが不快でない状態(pain asymbolia)(http://en.wikipedia.org/wiki/Pain_asymbolia)が生じることは知っていますが、前頭前野の切截術で同様のことが起こることは、あまり知られていないと思います。しかしこの事実は大変重要だと思います。前頭前野が、痛みの情動面に重要な役割を果たしているということですからね。ロボトミーに関連した研究成果は、(恐らく)医学論文では意識的に引用されないため、人目に触れなかったのかも知れません。この本の著者であるダマシオはモニスやリマと同じポルトガル人だから、ポルトガルの医学界では常識なのかも知れません。

いずれにしても正月休みに上記2冊の本を読んで、現在の科学や社会の閉塞感は、デカルト以来の理性に重きを置いた演繹的手法が、科学だけでなく広く社会一般でも、そろそろ限界に近づいてきたせいかも知れないな、などと柄にもなく考えさせられたのでした。やっぱり京大霊長研のように、アフリカでボノボを帰納的に観察している方がより科学的なのか、なんてね。

後200年もすれば、18~20世紀は、「純粋理性」によって「純粋自然」が解明されるはずだ、という????な考え方に取りつかれた、暗黒の時代とされるかも知れません。中世ヨーロッパにおけるキリスト教と同じようにね。

2011年1月4日火曜日

京都 一乗寺界隈と松本 中町通り

2011年になりました、明けましておめでとうございます。医局の方々を対象としたこのブログも足掛け2年になりました。よくまあ続いたと思います。もう少しショボショボと続けて、役目が終われば止めようと思っておりますので、今しばらくのお付き合いを...

さて年末は恒例の忘年会で京都に行ってきました。京都に行っても、毎年、一乗寺界隈と三条界隈をブラブラするだけですが、それが楽しいのですね。学生時代は一乗寺界隈で生活のほとんどが事足りました。当時、週末毎に通った名画座(http://homepage2.nifty.com/bkbn/hakurankai.html)はつぶれ、スーパーマーケットになったし、Jass喫茶(言葉自体が死語になりましたが...)は普通の喫茶店に替り、アナーキーな雰囲気を持っていた本屋は、今ではすっかりおしゃれな、全国的に有名なお店になってしまいました(http://www.keibunsha-books.com/)。それでも一乗寺の街並みは30年前とほとんど変わらず、昔の定食屋やラーメン屋も多く残っていて、ホッとします。

以前、H薬科大学のN先生に連れて行ってもらった戸越銀座や、京都の寺町通り、札幌の狸小路など、気に入っている商店街は沢山あるのですが、商店街としてはしょぼい一乗寺界隈が一番好きです。僕と同じように、学生時代過ごした京都を離れた後も、一乗寺界隈を忘れられない人が多いようです(http://www.kanshin.com/keyword/303334)。一乗寺や修学院周辺は、京都の中心街のように排他的でなく、地元の方々と、4-5年でいなくなる学生たちと、間違って迷い込んだ観光客たちが、うまく調和して独特の雰囲気を醸し出しているからだと思います。

終の住まいである松本の、中町通りがもう少し東に延びて、恵文社のような本屋や、もう少しゆったり寛げるカフェができれば、中町通り=(一乗寺界隈+寺町通り)/2みたいになって、僕にとってはベストな空間になるのですが...そうなるまでは、毎年、仕事納めの翌日に、京都一乗寺をブラブラした後、東山三条の帆布屋さん(http://www.ichizawashinzaburohanpu.co.jp/cgi-bin/index.cgi)を覘く生活が続くように思います。だから、もっともっと頑張ってくれい、中町通り!!(http://www.mcci.or.jp/www/nakamati/)と言いたいですね。