教室で文科省関連の科研費がいくつか当たり、欲しかった実験・臨床機器を購入できそうだ。来春の臨床研究棟の改築と合わせて、麻酔科のlabも研究に適した環境になることを期待している。とはいえ、今回通らなかったプロジェクトや、新たなプロジェクトについては、10月の申請に備えなくてはならない。そのためには、今から論文を投稿して業績化しなくては、次なる研究費獲得に支障をきたす。今回、科研費が通らなかった人を含め、教室員の皆の奮闘努力を期待したい。
さて、最近わが国ではMD researcherが減っている。「専門医指向」というのだそうだが、「○▲専門医」といった資格を得ようとするMDが増えて、研究を目指すMDが激減しているようだ。麻酔科は、臨床医学と基礎医学の間くらいに位置するイメージがあり、昔は学位を目指す人が多かったように思うが、今では学位取得を望まない人が増え、臨床に徹する傾向が強くなっている。だから麻酔科学の領域で、PIを目指す人は、もうシーラカンスみたいな存在なんだろうね。生きる化石として、臨床のlabで研究するMD researcherは、現在も将来も、臨床の仕事が終わった夕方や土日を実験日に当てざるを得ない。そこでMD researcherは、せっかくの夜や休日をどのような研究に費やすべきなのだろうか。
現在の研究とは、細胞膜にあるレセプタにある分子がつくと、それに応じて細胞が応答する細胞内シグナル伝達を進めるために、ある反応をする酵素キナーゼが存在する、そして、その反応を進めるためにも酵素キナーゼがあり、さらにその反応の触媒となるキナーゼキナーゼがあり、・・・・・・をすべて網羅・羅列することを目的化しているように思える。各研究者が発見したレセプタやキナーゼが、いかに生命現象に重要であるかを競い、最先端の生命科学の流行が作り出され、その流行の期間がますます短くなっていくように思える。
そもそも細胞内シグナル伝達では、外界に対応するだけなら、一段階の応答だけでいいはずなのに、なぜ何段もの構造が存在するのだろうか。加えて、各段階の反応を止めるために、脱リン酸化の酵素フォスファターゼが存在する。また、一つの酵素だけが対応しているのではなく、多くの酵素が関連して反応が進み、各経路は多くの枝分かれをした後、その枝がしばしば合流する。この冗長さは、分子生物学的な方法論に原因があるのではないか。つまり分子生物学的手法は、顕微鏡を見ながら森の中に入っているようなもので、細かい分子の動態が見え過ぎて、森全体の光合成を見るには適していないのではないかとすら思える。そして現在の科学者の仕事とは、自分が発見したレセプタやキナーゼのシグナル伝達機構を、羅列・枚挙することに一生を費やすことのように思える。
ゲノム、プロテオーム、メタボロームといった巨大研究プロジェクトも、羅列化、枚挙主義が目的化した果ての仕事のように思える。そして、個体全体の機能についての問いかけるのは科学の仕事ではなくなり、むしろ哲学の仕事へと回帰してしまったようにみえる。本来、分子生物学は、「人(ヒト)はどこからきて、どこへ行くのか(どうして死ぬのか)」という哲学的な問いかけに対し、科学的な回答を用意する学問と考えられていたはずなのに。このように、枚挙主義が一般化した現代の生命科学においては、西崎泰美氏が言うように、「最先端における新事実はお金さえかければいくらでも出てくる」ことになる。 つまりお金で科学業績(論文)が買えることになった。まぁ、一部、極論だけどね。
さて話をMD researcherに戻す。MD researcherにとって、貴重な夜や土日を実験に費やすのに値する研究とは何であろうか。少なくとも、羅列化や枚挙主義ではなかろう。枚挙主義の論文が通用するのは、最先端(科学的流行の?)領域であろうから、MD researcherは最先端(とされる)領域を少し避けるべきかも知れない。麻酔科学は、循環、呼吸、神経、免疫などの各ネットワークの関係性を探り、ヒトのホメオスタシスとは何かを問い続ける学問分野である。したがって、麻酔科におけるMD researcherは、各ネットワークが統合されたヒトの機能を見ていく上での「ものの見方、思想」が形成できるための実験をすべきだと考えている。具体的には、臨床を反映した個体モデルのin vivo実験にこだわり続けて、「ヒトの診かた」の体系を作る努力をすべきだろう。
とはいえ、MD researcherといえども、いやMD researcherであるが故に、最先端分野に参入しなくとも、Goldsteinが言うように、最先端の基礎的な研究手法と知識をしっかり学ぶことが不可欠である(http://www.jci.org/articles/view/112652 このGoldsteinの論文は大学院生に教えてもらった)。したがって、研究を指向する人は、若い頃にしっかりとした指導者のいるlabに研究修行に行くべきである。このため、僕達の教室でも、今春から大学院生には、生理研(井本研)や新藤研に行ってもらって、しっかりとした研究手法と論理的思考を学んで帰ってきてもらいたい。こうした修行は、研究を指向する人だけに該当するのではない。臨床を指向する若い教室員も、若い頃にしっかりとした機関や施設に臨床修行に行ってもらって、臨床上の新たな手技・手法と臨床医学の論理を身につけるべきである。こうして、要望に応じて、来春からいくつかの施設に臨床の勉強に行ってもらおうと計画中である。
若い時の苦労は買ってでもしろ、というじゃないか。僅かなお金につられて、しょぼい指導者しかいない病院で研修した人は、いつかそのツケが返ってくると思う。若者よ、若い時にこそ修行に出るべし。