2014年11月9日日曜日

花はのこるべし

先日、10数年以上振りに柳家○三治さんの独演会に行って来ました。第一印象は「年を取ったなあ」というものでした。若い頃の○三治さんは、マクラですでに爆笑に次ぐ爆笑を取り、噺に入るまで1時間以上かかって、私の帰宅が深夜になったこともありました。しかし人間国宝になって(というより年齢を重ねて)、2題とも割とあっさりと噺に入りました。そして、老いて若い頃のような爆笑を取らない分、しみじみとした味わいが長く残ったのでした。

信州に因んで、2題目は「時そば」でした。このマクラで、若い頃に見た秋の夕刻の御嶽岳の風景の描写をされましたが、夕焼けを背景とする壮大な御嶽岳が一瞬、観客の目の前に現れ、一同が息を飲むのが分かりました。また開田高原の鄙びたよろず屋で食べたプラスチック容器に入った蕎麦が、人生で一番美味しかったと語り、その色、形状、香り、歯触りを描写しました。私はその蕎麦を○三治さんと一緒に食べたような感覚にとらわれ、話芸の 奥深さに感動したのでした。

さて私も年を取り、大学病院、学会、文科省(学術振興会)などの雑用も増え、新しい論文を読む時間が限られ、研究に費やす時間もなくなりました。しかし、信州大学麻酔科、そして本邦の麻酔科学が今後、発展していくためには、

(1)麻酔科のメインテーマである急性期医療を亜急性期医療に広げていくこと
(2)区域麻酔/鎮痛の世界を一変させる新規創薬を行うこと
(3)臨床研究を教室の研究の中心に位置づけること

がどうしても必要だと考えています。しかし今後、私がフロントランナーとしてこれらのテーマに取り組むべきではないと考えています。なぜなら、最新の知識についていけない分、必ず判断を誤ると思うからです。ではどうしたらいいのか。私は今後、「何もしない」ということを、しなければならないと考えています。

世阿弥は風姿花伝の中で、50歳を過ぎた能楽師はかくあるべきだと語っています。

「このころよりは、おおかた、せぬならでは手立てあるまじ。麒麟も老いては駑馬に劣ると申すことあり。さりながら、まことに得たらん能者ならば、物数は皆みな失せて、善悪見どころは少なしとも、花はのこるべし。」

また若い時分について、こうも語っています。

「時分の花をまことの花と知る心が、真実の花に猶遠ざかる心なり。ただ、人ごとに、この時分の花に迷いて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すはこの比のことなり。」

 若い頃、芸風がある程度の完成を見ると周囲から注目されて「時分の花」となる。しかしそれは長くは続かず、初心に戻ってさらに精進して、芸を完成させなくてはならない。しかしたとえ芸が完成しても、50歳を過ぎるといずれ花も失せ、見るべきものは何もなくなってしまう。だから年を取ると「何もしない」ということを「しなくてはならない」。それによっても、その人がそこに存在したという歴史は残り、それこそが「まことの花」である。

これからの10年間、1人でも多くの信州の若者が、「時分の花」を経て「まことの花」に至るよう邁進し、信州大学麻酔科を発展させてくれることを、心から願っています。

2014年2月13日木曜日

We can be anyone we would like to be.

教室のK先生が○△大学の教授に内定しました。おめでとうございます。「苦労はいつか報われる」、そして「人は目指せば何にでもなれる」。私たちを取り巻く世界が、まだそのような価値観を残した世の中であることがわかって大変うれしく思います。

若い医局員を指導しながら手術室で遅くまで働き、手術の後ICUの患者を見に行き、実験室で自ら実験をして、土日を潰して論文を書き、若い医局員の研究を指導して・・・・すべて日々の積み重ねで麻酔科医や研究者としての力量が、麻酔科領域を越えて外科系の先生にも知られるようになって、教授を勝ち取りました。自らの半径5 m以内の地道な努力の積み重ねで、"We can be anyone we would like to be." を示してくれました。本当におめでとうございます。

K先生とは手術室でバタバタと走り回ったり、夜遅くまで実験室で一緒だったり、医局で酒を酌み交わしたりしながら、麻酔科医として共に成長してきました。K先生が○△大学に赴任するとその教室を背負った立場となり、これまでとは違った関係になります。同じ仲間としてお話できるのは祝賀会が最後かも知れません。そのことを少し寂しく感じながらも、信州大学と○△大学、そしてK先生と私との関係が新たな次元に入ることを楽しみにしています。本当におめでとうございました。


2013年11月12日火曜日

サンデーアフタヌーン

山下○郎さんのコンサートに行って来ました。落語は大好きなので、学会があると、その近隣で贔屓の落語家の独演会がないか、いつもチェックをしています。しかし、(多分)それほど音楽好きではないので、気がつけば、コンサートに行くのは20年振りでした。  

その昔、僕が動物実験を開始した頃、(今でもあるのかも知れませんが)日曜日の午後〜夕方に松任谷▲実さんと山下○郎さんのラジオ番組が続いてありました。この番組を実験室で聞きながら、1週間が過ぎたなと、感慨にふけったものです。その後、実験室を掃除してから帰宅し、日曜日の夜だけが家族と一緒に過ごせる時間でした。

当時在籍していた札○医大には、これといった実験機器がなく、ラットの行動薬理研究しかできませんでした。にもかかわらず、学位研究にせよという元ボスの指示があったため、ラットに鎮痛薬を投与しては、その行動観察で新たな発見を目指していました。今から思うと無謀な試みで、当時も内心は無理だとわかっていました。

しかし基礎研究の手法を正式に教わる機会がなかった僕は、現状をどう打開していいかわかりませんでした。そこでB29に向かう竹槍軍団の心意気で、とにかく昼夜土日を問わず、悲壮な覚悟でネズミの行動観察を繰り返していたのです。今から思うと、まったく光が見えない自分の未来に対し、心に不安が堆積するのを防ぐために、とにかく実験を繰り返していたのでしょう。光学顕微鏡で黄熱ウイルスを発見しようとした野口英世も同じような心境だったのではないかと推察します。実験室はいつも僕一人だったので、ラジオだけが慰めでした。過酷な1週間の最後に聞く山下○郎さんの曲だけが、心の拠り所だったのです。

ですから、今でも山下○郎さんの曲を聞くと、ラットの糞尿とホルマリンの入り交じった、実験室の匂いを思い出します。そして当時の自分の焦燥感と、結局ものにならなかった研究と実験動物たちへの悔悟の気持ちがこみ上げてきます。

プルーストは、マドレーヌでコンブレーの町の淡い記憶を思い出しましたが、僕の場合は、山下○朗さんが歌うGroovin’ The Young Rascals)で、(本来の歌詞とはまったく違う)孤独な実験室、ネズミの糞尿とホルマリンの匂い、そして過去の悔悟の記憶がよみがえりました。広いコンサート会場を埋め尽くした観客を見下ろしながら(4F席だったので)、この中で山下○郎さんの曲を聞いて、ネズミの糞尿の匂いがする実験室を思い出しているのは僕だけだろうと思い、不思議な気持ちでした。

最後の方で好きな「希望という名の光」と「アトムの子」を聞きました。

還暦になっても心の奥底にアナーキーな香りを秘めた山下○郎さんよ、永遠なれ! 

そして、僕の実らなかった実験に使われたネズミたちよ、永遠なれ!

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There's always lots of things that we can see
We can be anyone we'd like to be
All those happy people we could meet
Just groovin' on a Sunday afternoon
Really, couldn't get away too soon

                                                             — Groovin' 
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2013年6月10日月曜日

再開します

1年半振りにブログを再開します、パチパチパチ。

このブログは、医局の皆さんとの日頃のコミュニケーションの隙間を埋める目的で、2009年に開始しました。2年間で私の考えは十分理解してもらえたので、2011年10月に一旦、終了しました。

その後、うれしいことに医局には若い仲間が増えましたが、逆に世代間の意思の疎通が必要とも感じるようになりました。そして、いまだに日本の医療/医学の行く末は不透明で、私たちは「不安」の中を彷徨っています。このような時期には、物事を本質的な立場から考える視点が不可欠です。

そこでこれまでのブログのように、私の考えを一方的に述べるのではなく、医局の皆さんと一緒に考えていくような内容にしたいと考えています。つまり、医局の皆さんからの反論/異論を期待し、私たちの教室をどの方向に進めるべきか、考えるきっかけになればと思います。

とはいえ私もこの1年半で雑用が倍増したので、それほど更新はできません。そこで当面、再開に気づく人が少ないように、こっそりと始めたいと思います。さてさてどうなることやら。ともかく再開、パチパチパチ。

2011年10月10日月曜日

4年経ちました

2007年10月10日、札○医大図書館で論文を読んでいた僕のPHSに、信州大学医学部長△橋教授(当時)から教授選考結果を知らせる電話がかかってきました。あれから今日で丁度4年経ちました。あっという間の4年でした。

論文を読んで患者を診る。思索を重ねて論文を書く。論文を読んでネズミに聞く。思索を重ねて論文を書く。また論文を読んで患者を診る...この繰り返しを一生淡々と行うのが医者の努めと信じて生きてきました。しかし赴任直後、ある医局員に「論文ばかりを言う教授にはついていけないな」と目の前で手術用手袋を床に叩きつけられた時に、僕の常識が通用しない世界に来たことを知りました。

赴任後、医局の秘書さんには、「先生、ここには医局で勉強するような医局員はいませんよ。」、「ここでは外国論文を取り寄せたり、英語論文を書いたりする医局員は出ませんよ。」と言われました。確かに夜7時に外勤から帰ってくると、臨床研究棟は麻酔科医局の周辺だけ真っ暗でした。赴任後半年間は、ほどんど誰とも夜の医局で出会うことはありませんでした。今では真夜中や土日祭日でも実験をしたり、論文を読み書きする医局員が多くなりました。それでも僕は、赴任直後の秘書さんの言葉を肝に銘じています。医局を活性化し続けるのが僕の唯一の役目だと信じるからです。

信州大学で肝移植を始められた●内先生の回顧文(肝移植施行20周年記念業績集:医局図書にあります)にこう書かれています。「臨床は患者さんのニーズに応じて行っていくもので、それは淡々と粛々として行われるべきことです。また他人が行っていないことを初めて行うには論理的根拠、エビデンス、そして技術的背景と工夫が必要です...。」 当たり前のことですが、まさにそれを実践されてきた●内先生の文章なので含蓄があります。

論理的根拠とエビデンスのために「論文を書く」という作業が不可欠です。論文なき医療は呪術と同じだからです。でももうこんなことは、医局の皆さんに言わなくてもよくなりましたね。思えば僕が入局した札○医大麻酔科も、20数年前は荒廃しきっていました(失礼!)。論文を読む人も書く人もほとんどいなかった...。そこで危機感を持った若い医局員たちが切磋琢磨したのです。そして個々の医者の成長と医局の成長とが合致し、うまく発展できた稀なケースだったのだと思います。しかし過度で不当な競争は、個人だけでなく組織から真の理念-医者として失ってはならない信念や良心-を奪うことがあると肝に銘じなければなりません。

この4年間で僕が何より嬉しく感じるのは、信州に臨床と研究のバランスの取れた人が育ってきたことです。「いい臨床医を育てる。そのための臨床 & 基礎研究であり、必ず臨床に反映させなければならない。」という信念が実現しつつあることを大変嬉しく思います。学会発表数や論文数を競っても仕方がありません。どこに出しても恥ずかしくない、研究心を持った臨床医を一人でも増やしたい。次の4年に向けて粛々と医局の皆さんが成長できるようサポートしていきたいと思います。

最後になりましたが、●内先生は次のようにも書かれています。『...赴任直後、まじめそうな若い医局員から、「先生、余暇には何をされますか?」と聞かれました。僕には余暇という概念がなかったので、びっくりしていささか返答に詰まりました..。』 確かに僕も医者になって以来、余暇という概念はありませんでした。しかし仕事から解放され、とことん遊ぶ余暇は確かに必要だと思います。それでも若い医局員には、たとえ大学にいる数年間だけでも、人生を賭して臨床や研究に没頭して、数多くの無駄な夜昼・祭休日を過ごして欲しいと願っています。そんな無数の夜や祭日を経て人は成長し、そんな無数の人生が集まってこの世は成り立ち、人類は進歩してきたのだからね。きっと皆さん,医者として人間として成長できると思うよ。

本ブログは当初の役目を終えたので、新たな方向性を持たすまで休止します。また再開した時は宜しくお願いします。

2011年7月3日日曜日

震災の年の研修医マッチングを前に

今年も研修医マッチングの時期が迫ってきました。勿論、信州大学のプログラム選択者数は気がかりですが、今年は、東北/北関東の医学部卒業者がどこを研修先病院に選ぶか気になります。少し引用が長いですが、ある新聞の論説で以下のように書かれていました。「...東日本大震災は日本列島の国土のあり方に大きな変更を迫っている。いろいろな意味での国土の分散化が必要であるし、それぞれの地域が独立した存在としての実力を蓄えていることが期待されている。...(中略)...日本の医療は既得権益と前例に縛られて、身動きが取れなくなっている。東北地方の医療は、そんな不自由な「本土並み」医療に戻してはいけない。大胆な医療の地域再編を行い、情報化などの分野で最先端の仕組みを導入し、地域医療の先端事例を作り上げてほしい。創造的破壊という言葉があるが、破壊を素晴らしい創造に結びつけたいものだ。」(産経新聞 伊藤元重)

どんな組織であれ、時代とともに必ずシステムが硬直化し、いずれ創造的破壊が必要となります。しかしシステムを作った当事者が破壊に向かうのは難しいため、破壊のためには既存の考えにとらわれない、若い力を結集することが不可欠となります。そして破壊だけではなく、創造をセットとして行うためには、創造した結果に責任を持つ者が、その任に当たらなければなりません。こうして唯一、若者だけが創造的破壊を達成できるのです。

東北/北関東の医学生が卒後、東北/北関東の医療再生に邁進するかどうか、日本再生の試金石かも知れません。そして東北に限らず、各地の医学部卒業生が、それぞれの地域の医療再生を目指し創造的破壊に邁進することこそが、この国の医療再生には不可欠です。

僕は震災の年である今年から医学生の意識が変わり、卒業大学に留まり地域の医療再生を目指す若者が増えるではないかと思っています。決して大多数ではないかも知れない。しかし確実にそうした若者が増えていくと願っているのです。有名病院?の意味不明な「有名」という文言には見向きもしない、長期的な展望を持った若者が増えて欲しい。

それでもやっぱり今年も、大震災なんか無関係とばかりに、初期研修先に都市部の有名病院を志望する地方医学部卒業生が多いのでしょうか。しかし、それはまだいい方かも知れない。今回の震災の後でも、2年間の夏休みとして称して、観光気分で沖縄や北海道を初期研修先に選ぶ人たちがいるのでしょうか。今後もこうした傾向が続くのなら、この国の復興などありえない。その時私たちは、国の将来を託すべき若者をなくしたという、厳しい現実に直面するのかも知れません。

これから数ヵ月間、今年の研修医マッチングの結果を、僕はドキドキしながら見ることになると思います。

2011年5月23日月曜日

よかったね!

第58回日本麻酔科学会(神戸)が終了しました。今回の学会で、K先生が麻酔科学会の最高のY記念賞を受賞し、M先生が学会総会最優秀演題賞(神経部門)を受賞しました。F先生の演題も優秀演題にノミネートされ、1位と僅差だったそうなので最優秀演題と同等と思っています。夜遅くや土日を潰して研究されてきた成果で、他の教室の方々にも大いに励みになったと思います。

1-2年の努力で最優秀演題を貰い、3-5年の努力で麻酔科学会の若手賞を貰い、10年の努力でY記念賞を貰う...そんな目標を持つ人が出てきてもいいのではないでしょうか。但し、賞は目的ではなく、僕たちの日々の努力に対する、ちょっとした励ましなのだと思います。

僕たちにとって、手術室/ICU/ペインクリニック/実験室が宇宙のすべてです。僕が信州に赴任した3年半前、「若い時期にこの小宇宙で真実を求めて努力し、成果を世界に問うてみないか」と医局の皆さんに提案したつもりです。その時の私の発言を、どれだけの方々が理解してくれたのか、甚だ心もとない時期がありました。紆余曲折がありました。そしてようやく昨年あたりから、夜や土日を潰し、自分の人生を潰して、何かを生み出すことに意義を見出す人が出てきたと感じるようになりました。今回、その何人かが賞をもらったり、賞に手が届きそうになったことを、大変嬉しく感じました。そして、賞や学術成果に限らず、教室の皆さんがそれぞれ前向きに、皆さんの高みを目指して欲しいと願います。

麻酔科学会の会場で見た教室の皆さんの表情が自信に溢れており、僕は何故か少し照れくさい気持ちを感じながら会場を後にしました。そのせいか、今回の文章は柄にもなくストレートになってしまいました。みんな、本当によかったね。