12月も半ばとなり、慌ただしい師走に入りました。今年の1月より小文を書き連ねて1年が経ちました。「ブログ」という柄ではないので、身回りの事象やtoo contemporaryな内容は避け、教室の方々へのメッセージとして書いてきました。数回で終わるかと心配でしたが、のんびりペースで何とか1年継続できました。よかった、よかった。
僕が赴任して2年が経ち、教室も少し落ち着いてきたのではないかと安堵しています。たとえ教室という小さな組織でも、組織は組織です。皆さんが主宰者の顔色を窺うような個人商店ではなく、小さいながらも一人一人の目標に向けて、組織としてサポートしていける民主的な教室でありたいと願います。そのためには教室を盛り上げるように、一人一人の自覚的な協力や貢献が不可欠です。臨床、教育、研究それぞれに、教授が一々口を出さなくとも、皆さんが自主的に動いて、この教室でのベストな方法を生み出していきましょう。宜しくお願いいたします。
さて先週末、岡崎の生理研(自然科学研究機構 生理学研究所)で痛みの研究会(http://www.nips.ac.jp/cs/2009itamiHP/2009itami_annai.htmlがあり、教室員4名に行ってきてもらいました。来年の1月から僕たちの仲間に加わる川◆先生も講演するし、教室の杉▲先生も生理研に国内留学しているし、そして何より来年から研究を開始する人達に、ショックを受けて欲しいと思い参加してもらいました。どうです、びっくりしたでしょ!! 発表する基礎の先生方が、何を喋っているか全然わからなかったのではないでしょうか。僕も20年近く前はそうでした。研究に関する基礎知識が不足しているのに加え、次から次へと新たな概念が出てきて、研究会に行く度に途方に暮れていましたね。
こればっかりは仕方がないのです。医者は卒業した後、診断・治療法の習得に明け暮れて、病気/病態の背景を探るといった、科学的な思考を身につける機会が少ないのです。そして、学位研究の頃初めて、厳密な科学に出会う人も多いのです。しかし卒業して何年も経って出会った科学の世界は、すでに重箱隅化して棲み分けられた世界です。僕たちは「痛みって何?」という根源的答えを求めて研究を志したつもりでも、基礎研究の現場では「●△による神経障害性疼痛の際の□▲レセプタを介した■◎キナーゼ・キナーゼの活性化」というようなテーマが主体となり、なかなか他分野の素人を寄せ付けないのです。専門化/細分化された領域は言語を特殊化するのが世の習いです。法曹界然り、医者や職人の世界然り、そして職業科学者の世界も、(意図せず)technical termという隠語で他者を排斥しようとするのかも知れませんね。だからたとえびっくりしても逃げ出さないで、臆面もなくその世界に入り込んじゃえばいいのです。やがてその内、その領域の重箱隅研究者くらいにはなれるはずです。
医者は卒業後、臨床にどっぷり浸かって臨床の「曖昧さ」を理解することが重要だと思います。その後、基礎医学の厳密な世界に出会ってびっくりしても、やがて時間とともに馴染んでいきます。但し、最初に持った「違和感」を決して忘れないで欲しいと思います。この「医学を科学しようとする際の違和感」を持つのは臨床医にとって健全で、やがて財産となるはずです。「臨床の曖昧さ」と、「厳密性を保持しようとする基礎医学への違和感」を埋めるのが、臨床医研究者(MD researcher)が行う研究の役目だと考えるからです。
これまで、基礎医学に不勉強であった自分を恥じる必要はありません。僕たちは麻酔薬で意識をなくす患者さんを日々見ています。鎮痛薬で痛みをなくす患者さんや、あるいはどんな鎮痛薬でも除去されない痛みを持った患者さんを日々見ています。こうした観察を通じても、意識や痛覚に関する「理論」は演繹されないかも知れませんが、ある種の「信念」は形成されるはずです。この信念こそは臨床医だけに得られるもので、現象の本質を含んでいると考えます。そして僕たちは、この信念につながる「理論」を求めて、基礎的研究を行おうとしているのです。これがMD researcherの研究動機であり、純粋科学を追及しようとするPh Dとの違いだと思います。
小林秀雄 は、「...(人間の)覚悟というのは、理論と信念とが一つになった時の、言わば僕等の精神の勇躍であります...」と述べています。この言葉はまさに臨床医として研究に臨む者の「覚悟」としても、当てはまるのではないでしょうか。