2009年11月17日火曜日

研修制度をぼやく

山■大学との合同研究会があり、名古屋のK教授に特別講演をお願いしました。麻酔の歴史から始まり、麻酔科学という学問がいかに成立しているかについて造詣に富んだお話いただき、大変感銘を受けました。ただ今回はこの講演内容ではなく、講演の前にK教授と一緒にぼやいた、現在の研修制度について記します。

初期研修制度が始まって以来、初期研修+後期研修を一般病院だけで行い、卒後4-5年間、大学医局とは無関係に研修する人が増えてきました。K教授の古巣でも何年も経ってから入局してくる人が増えて、対応に苦慮しているとのことでした。勿論、このような方のなかにも、研究心を持った医師としてしっかりと成長されている方もいます。しかし医師としての成長すべき一番重要な時期をすでに逸しており、今後どのように教育していったらいいのか途方に暮れる人がいるのも事実です。 同様の事態は多くの大学で起きており、各大学では相当な危機感を持っています。

市中病院は「市中病院こそ、後期研修として医療技術を修得するには最適の場所である」と研修医を勧誘するようです。そして、「大学のように研究主体の施設で後期研修のスタートを切る意味はない」と言う施設もあるようです。私はどちらが後期研修に優れているかという議論の前に、医療/医学とは一体何かという点についての認識が必要だと思います。

もし人間の体の仕組みの大半が解明され、謎が残されておらず、現在の医療が将来も変更されることがないなら、初期教育などさほど重要な問題ではありません。 しかし私達は人間の体のことをほとんどわかっていないのです。K教授も講演でも触れられたように、「麻酔とはバランスのサイエンス」であり、生体侵襲から循環、呼吸、神経、内分泌・代謝、免疫、といった生体機能をいかにバランスよく維持(保護)するか、というのが麻酔科学の本質です。ではどのようにバランスを調整したらいいのでしょうか。各臓器の機能すらまだまだ謎に満ちているのですから、各臓器にとってバランスいい麻酔など、正解には程遠いのが実情です。麻酔科医は多少進歩したモニターと、自らの経験則や過去のデータ(論文)をもとに、「ほどほど感(勘?)」だけを頼りとして、麻酔を行っているに過ぎません。

つまり麻酔医療とは、本質的に「手探り医療」の域を出ないのです。とはいえ、こうした事情はすべての領域に共通しています。ですから古くはノーベル賞を取ったロボトミー手術から、最近の様々な医学上の問題まで、医療/医学に誤謬はついて回ります。私たちが人間の体のことをさっぱりわかっていないのですから、現在の医療/医学は誤謬を潜在的に内包せざるを得ないのです。

このように、医学/医療が不完全であるという認識を持てば、日々の麻酔技術の修得だけではなく、麻酔という現象の背後を探り、常にlogicに基づいて考え、麻酔をサイエンスに高めようと努力することが、良質の麻酔科医になるためには不可欠であることが理解できると思います。このためには個々の患者に入念な麻酔を行うだけでは不十分で、過去から現在の論文を読み、症例経験などを契機として臨床研究や基礎研究を行い、生体の謎に迫ろうとすることが重要です。こうして、良質の麻酔科医として成長するには、長い教育期間が必要となるのです。これまでは、大学医局が初期教育から一貫して長い教育を担当してきましたが、現在、その初期教育が揺らいでいるのです。 初期教育は、いわば初学者における「読み書きそろばん」の期間ですのでこの時期の揺らぎは、直ちに「基礎学力・体力の低下」となり、自立した麻酔科医の養成に支障をきたすのではないかと危惧されます。

私は○▲大学の麻酔科に入局して、直ちに論文の抄読やreviewをやらされ、臨床研究や動物実験の手伝いもさせられました。私にとってこれらの初期教育は、多くの仲間・同士との出会いや、新しい技術や知識の習得という点では楽しい日々でした。しかし、決して楽しいだけではありませんでした。論文抄読では自分の知識不足を痛感しました。徹夜で抄読会の準備をしても、先輩たちから質問の嵐でケチョンケチョンに叱られ、しばしば沈没しました。臨床研究では、普段の印象とデータ解析の結果が異なることを知り、臨床現場における印象がいかに不確かなものであるかを知りました。動物実験では、犬やネズミが麻酔により意識がなくなる姿や、痛みが抑制される状態を観察し、麻酔や鎮痛など日常臨床でわかったつもりの現象のほとんどが、未解決であることを知りました。こうした実験は、麻酔業務後に行いましたので、精神的にも体力的にも辛かったし、データ解析すると自分の予想と異なる結果ばかりで、泣きたくなりました。それでも3-4年目にはこうした研究結果をアメリカ麻酔科学会で発表させてもらいました。学会のpreview(予行)では、英語のabcの発音すらアメリカ人には通じないと叱られ、途方に暮れました。しかし学会に参加し、英語はさっぱり通じないながらも、日本国内は勿論、諸外国の麻酔科医/研究者と積極的に交流することが、麻酔科医としての成長には不可欠だと痛感しました。

こうした大学での初期教育があったからこそ、現在、自分が曲がりなりにも、一人の麻酔科医として成長できたのだと確信しています。そして、現在の大学病院や市中病院の中心的な指導医は、大学での初期教育を受けて成長してきた人たちです。ですからそうした指導医は、市中病院での楽しそうな研修に惹かれる若者には、楽しいだけでは初期研修として不十分だと考えていると思います。楽しいだけの初期教育が将来に禍根を残すのは、小・中学生における「ゆとり教育」の弊害からも明らかだからです。

初期研修の頃から、自分の力だけで努力し向上していく若い医師もいます。しかし大半の若者は、向上心はあるものの方向性がわからないため、初期教育でその後の人生が運命付けられるといっても過言ではありません。こうした若者に技術を中心とした教育をすると、現存の技術の修得のみを目標とする医師になってしまいます。いわゆる「専門医志向」という人たちです。しかし、現存の医療技術が潜在的に誤謬を内包しているのは先に述べた通りですので、こういう人たちばかりが増えると、今後の医学/医療が停滞してしまいます。そこで 私は初期教育期間こそ、分子量が僅か200-300の麻酔薬/麻酔関連薬が、意識、痛み、記憶などをなくすことの不思議に驚き、そしてその背後を共に探ろうとする指導者が必要ではないかと考えています。

私たちは麻酔という、未解決の現象を患者さんに施すことを生業としています。ですからその職業倫理として、分子量が僅か200-300の分子によって抑制されてしまう、「意識、痛み、記憶、あるいは循環・呼吸とは何か」、「ヒトが生きているということは何か」を、将来にわたって考えていくべきではないのでしょうか。 これ以外に、患者さんに対する誠実さを示す方法はないのではないでしょうか。そしてこの本質的な問いかけをする姿勢こそ、初期教育期間に芽生えるのではないかと考えています。この大切な時期にこそ、国内外の麻酔科医/研究者と交流し、将来の仲間や先生となる人たちを見つけていくきっかけを与えるべきです。「井の中の蛙」では、麻酔科医としての成長に支障が出ることが明らかだからです。

若者には無限の可能性があります。自分の目の前にいる一人の若者が、医学/医療を根底から変える医師/研究者に育つかも知れないと思いながら、私は学生/初期研修医に接しているつもりです。インスリンを発見したフレデリック・バンティングが成し遂げた過程を考えてみれば、こうした可能性が皆無ではないと思うのです。医師としてスタートを切った時点では、医師/研究者に能力差はありません。後は「やるかやらないか」です。そして偶然にアイデアを得る能力(!?)や解明に向かう情熱も、教育によって培われると信じています。そして、こうした成長のためには、初期教育こそがもっとも重要だと思うのです。

勿論、若い医師は初期教育から一生涯、大学での研鑽を続けていくべきだなどとは考えていません。ある時期、現在の医療/医学の背後にある不確実性・不明瞭性を知り、その認識のもとに他者と交流しながら勉強することが、将来、自他共に信頼される麻酔科医になるための基礎を作ると言っているのです。そして初期教育の時期こそ、自立した医師へと成長を促すためにきわめて重要な時期ですので、一人でも多くの若者が、正しい教育を受ける時期を逸しないようにと願っています。鉄は熱いうちに打つべきで、打つ時期を逸する若者がいないようにと願うのです。

若い医師を指導する側は、後期研修医になった最初の数年間に正しい教育を行わなかった場合、その若者の将来の芽を永久に摘んでしまう可能性があることを強く認識すべきだと、自戒を込めて思います。だからこそ、一つの大学だけで若い医師を教育することが、無謀だと考えているのです。 若者の可能性を伸ばすためには、大学、関連病院、国内他大学・他施設、そして海外留学など、国内外の医師/研究者との協力による、息の長い教育が不可欠です。若い麻酔科医の初期教育に携わる指導医すべてが、今一度、自らの責任の重さについて、じっくりと考えるべき時期に来ているように思うのです。