2010年5月31日月曜日

Just moved !!

ようやく引っ越しました、パチパチパチ。

これまでの僕の全人生での引っ越しは、徳島→西宮→宝塚→京都→(市内で2回)→近江八幡(滋賀)→札幌→旭川→(市内で1回)→札幌→釧路→札幌→アメリカNew Haven→(市内で2回)→札幌→松本(沢村)→松本(蟻ヶ崎)→松本中央で、計20回となりました。すごいね。2-3年に1回は引っ越している計算になります。だからお金が貯まらないんだね。

因みに大学卒業後、勤務先は、京△府□大脳外→松▲記○病院麻酔(研修)→与◇野●病院外科(研修)→近□八△病院脳外→札○医◆麻酔→旭●赤□字病院麻酔→市△旭■病院麻酔→札○医◆ICU→市△釧■病院麻酔→札○医◆麻酔→東▲幌病院麻酔→北○道■体△自◇児センター麻酔→アメリカYl大学麻酔(研究lab.)→五◆橋病院麻酔(1ヶ月の所属のみ)→札○医◆麻酔→信○大学麻酔で、延べ16施設で、1.5年毎に勤務先がかわっている計算になります。さすがにもう現職を最後にしたいのですが...。 

引っ越しや異動は、新しい土地や仕事に慣れるという点からはstressfulではありましたが、見聞が広がるという点からはとても有意義でした。一か所に留まっては見えないものが、移動することにより確実に見えるようになります。信州に来て少し驚いたのは、勤務先を移動したがらない若い人が案外多いことでした。僕は脳外科医時代に、たまたま麻酔科を研修した先の部長に勧められて、縁もゆかりもない札○医大に行きました。当時は、何も考えていなかったですね。その部長を敬愛していたので、言われるままに動いただけです。そして北海道に移った後は、自ら希望して一番忙しいとされていた病院を、1-2年毎に転々としました。

若いうちにいろんな病院や施設で勤務/研修し、さまざまな先輩/同僚と(他大学医局の人達とも)一緒に仕事をすることが大事だと思います。多様な価値観に出会えるからね。そして、若いうちにちゃんとした(?)反面教師に出会うのも、将来、若い人を指導する際にとても重要です。それに、若い頃に尊敬していた先生がいつの間にか尊敬できなくなくなったり、若い時にはどうしようもない反面教師と思っていた人が、こちらが年取るとともに案外味がある人だと思うようになったりと...いろいろだと思います。

若いうちはあまり考え過ぎず、与えられた環境の中でベストを尽くせば道は切り開けると思います。僕自身はこれまで前任地で人事案をすべて受け入れて1-2年で異動してきましたが、結果的プラスになりました。元ボスはいろいろ考えてくれていたんだと、ようやく今になってわかるようになりました。

麻酔科人事をスムーズにするための勝手な理屈だとは思わないでくださいね。1-2年の期限で異動するのは、仕事/論文をまとめたり、自分の将来の方向性を考えるのに有意義だと思います。山本夏彦も「世は締め切り」と言っているではありませんか(http://www.amazon.co.jp/世は〆切-山本-夏彦/dp/4163511202/ref=sr_1_25?ie=UTF8&s=books&qid=1275283768&sr=1-25)。仕事を「締め切って」区切りをつけて次に進まないと、生産性が落ちるということですね。まあしかし生産性を上げるために、僕のように20回の引っ越し、16回の勤務異動ということになれば、それはそれで問題かも知れませんが...。

ともあれ引っ越し先の2階からは、晴れた日に(小さいながらも)常念岳と槍ヶ岳のピークが見えて、心が落ち着きます。もうしばらくして一段落したら、医局の方々をお招きしてBBQでもしようと思っています。その節は遊びに来て下さいな。以上、まずは引っ越しの報告でした。

2010年5月19日水曜日

ネズミの顔色を伺う

たまには最近読んだ論文について...

CLP (cecal ligation and puncture)という敗血症性腹膜炎のネズミモデルがあります。ネズミの盲腸を結紮/穿刺して腹膜炎を作る実験モデルです。昔、この実験を手伝っていた頃、絞扼性イレウスの臨時手術の依頼がきて、患者さんに会いに行ってびっくりしました。患者さんの顔色の悪さ、表情、肩で息している姿が、CLPモデルラットそっくりだったのです。患者さんをネズミとそっくりだなんて叱られるかも知れませんが、病室に入った瞬間、CLPネズミの姿と患者さんの表情が完全にオーバーラップしたのだから仕方ありません。痛みの研究に転じた後も、ペインクリニック外来を受診する慢性疼痛の患者さんが、神経障害性疼痛モデルのネズミとよく似た表情、雰囲気をかもし出していると思っていました。慢性痛の基礎研究と臨床の両方をやっている人は、きっと了解してくれると思います。

ですから、ネズミも痛み特有の表情をするというタイトルを見つけた時、ちょっとうれしいのと同時に、「やられたっ!!」という思いもありました(http://www.nature.com/nmeth/journal/vaop/ncurrent/abs/nmeth.1455.html)。痛いとネズミは目を細めたり、鼻や頬っぺたを膨らませたり、耳や髭を後ろに倒したりするそうですが、確かにネズミはこんな表情をすることがありますね。遺伝子いじった難しい分子生物学的なアプローチや、高度な技術を要する電気生理学的アプローチだけでなく、こうした直接的な観察研究の中にも、科学の本質はあるのかも知れません。京大霊長研の人達が、アフリカでボノボの性行動を双眼鏡で観察しているみたいにね...

ヒトでは表情筋や声帯筋が高度に発達したので、他の動物にはない笑いや怒りの表情や、言語を獲得したと言われています。でもチンパンジーが笑うのはすでにCharles Darwinが130年前にパント・コールとして報告していますし、霊長類に文法構成能力があることも証明されています。またチンパンジーでなくとも、飼い犬が何となく笑っているように見えることも、飼い主が発する言葉を理解していると思えることもありますね。ネズミもじっとみているとそれぞれに個性があって、何となく立ち振る舞いや表情が違います(http://www.amazon.co.jp/ラット一家と暮らしてみたら―ネズミたちの育児風景-服部-ゆう子/dp/4000024183)。

そもそも形質が違う他種生物を見ると、僕たちはまずはどこが彼/彼女の「顔」なのか探そうとしますね。ヒトの表情筋に進化した「原基筋群」の変化を見ることで、その生物の感覚/情動を読み解こうとしているのかも知れません。ネズミ脳はヒトと類似の情動変化をきたすので(http://www.nature.com/news/2010/100519/pdf/465282a.pdf)、痛い時の情動変化は、表情筋の原基となったネズミ顔面筋にも変化を与えるということですね。同種にせよ他種にせよ、出会った相手の生物がこちらに対して怒っていると、我が身に危険が迫り生存確率が減るので、生き延びるためには他生物の「顔色を伺う」ことが重要なはずです。あるいは自分が外敵に噛まれて、痛みで苦悶様の表情をすれば、仲間に危険を知らしめ、仲間の生存確率を増やす利点があるはずです。

さらに進化の過程で、ヒトは「表情や行動」を過剰に演技/演出すると、食物・仲間の獲得や生殖上、有利に働くことに気付くようになったのかも知れません。ヤ○ザは恐い顔で周囲を威嚇して欲しいものを手に入れようとするし、僕たちは地下鉄に乗ってきたヤ○ザが怒った顔をしていると、素早く隣の車両に移って生存確率(?)を高めようとするだろうしね。うーん、「演技や演劇の進化論的メカニズム」なんて論文がNatureに掲載される日も、そう遠くないように思いますね。

ところで昔、朝カンファレンス時に、元ボスの教授のその日機嫌がいいかどうか、表情をそれとなく伺っていました。あれって教室におけるわが身の生存確率を高めるための、本能的行動だったのでしょうか。現教室の人たちも、朝、僕の表情を窺っているのかしらと、ちょっと心配になりました。

2010年5月17日月曜日

アルペンルート

リタイア爺さんのように、バスツアーで信州側から黒部立山アルペンルートに行ってきました。平均年齢67 ± 11歳という感じのツアーでした。私ともう一人以外は、ほぼ全員がリタイア組でしたね。仕事が溜ってて、アルペンルートに行ってる場合か!!  という内なる声はあったのですが、あまりに山と無縁の生活でちょっと煮詰まっていたので、開き直って行ってきましたが、とても良かったです。

黒部ダムは過去、2-3回通ったはずですが、今回もその壮大さに感動しました。快晴で見晴らし抜群で、白馬の雄大さにも感動しましたね。そして数人の重装備の登山客とすれ違った際に、学生時代に黒部ダムから黒部の源流を遡行したことをいきなり思い出しました。当時、私たち○△大学山岳部員は、黒部ダムにいた観光客たちを、「けっ、一般人がチャラチャラするんじゃねーよ」的な眼光ビームで睨んでいたように思います。久しぶりの大きな沢登りで緊張していたのと、基本的に世の中一般に対してトガッた若者ばかりであったためと思いますね。今から考えると、当時の私たちの信条は、「若者らしく、清く正しく屈折する」だったのだと思います。

そのせいか、約30年を経て「一般人」側に自分がいるのが、ちょっと不思議な感覚でした。○△大学山岳部の先輩だったN先生が、今でも自分の子供よりも若いような山岳部員と、気分的に張り合っている理由が少しわかりました。当時の自分の若さ/青さに対する憧憬と恥ずかしさと、現在接している学生諸君の若さに対する応援と嫉妬が入り混じった奇妙な感覚なんですね。なるほど、なるほど。

ともあれその後、ケーブルカー、ロープーウェイ、トロリーバスを乗り継いで着いた室堂で、雷鳥沢に向かって少し下って、剣岳と早月尾根を一部見ることができました。やはり剣岳は素晴らしい!! 年寄りになって足腰立たなくなる前に、一般道でいいので剣岳に登っておかねばなりません。今年、四半世紀振りに槍ヶ岳には登るので、ついでに剣岳も制覇しておこうかしら。剣岳だけなら、1泊2日で行けそうだし...富山側からしか黒部へは行ったことがなかったので、こんなに松本が黒部まで近いとは知りませんでした。

ということで、今年の医局旅行は黒部→剣沢小屋でしょうかねえ、医局長さん。

2010年5月13日木曜日

世の中まだまだ捨てたもんじゃない

京○府△大麻酔科の教授にS先生が就任されました。S先生は僕の1年先輩で、23年前、僕が脳外科医として出張した滋賀の病院に麻酔科医として赴任されており、しばしばお互いの不遇な人生を嘆きあったのでした。飄々とした、とても頭が切れる人でした。僕が麻酔科に転じた理由の一つは、S先生のように生きたいと思ったからでした。

僕が北海道に移ってから10年後に、アメリカでS先生と再会しました。当時、S先生はUCSFで肺障害の研究をされていて、私が痛み研究のlab.を見学に行った際に、S先生のlab.を訪れる機会があったのです。Nat Medに論文を載せられた直後で、UCSFの麻酔科lab.のPI直前のポジションに就いておられました。その姿は10年前の滋賀での病院とまったく同じで、飄々としながらアメリカのpostdoc達に的確に指示を出しながら、僕を案内する姿が印象的でした。きっとS先生はアメリカでPIになると確信して、先生のlab.を後にしたのです。

しかし僕が帰国後しばらくして、S先生も帰国して京都の市中病院で働いているという風の便りが流れてきたのです。そして再々会して、この間の事情を聞く機会がありました。S先生の場合、最初に出会った頃から、その考え方や行動が首尾一貫しており、まったくブレないのです。不実なものは不実と見極める眼力と、不実を潔しとしない人生を生きてこられたと思います。帰国に至る事情もS先生らしくすがすがしいものでした。そしてアメリカでのacademic positionを捨てた後、京都の市中病院の麻酔科 & 手術室運営に熱弁を振るう姿をみて、やはりこの人には叶わないと思ったのでした。

今回、京○府△大麻酔科教授選に応募し、再度、academic positionへの復帰を目指していると聞き、ひそかに応援しておりました。しかし昨今の麻酔科を取り巻く環境の中では、S先生のような学究肌の人はむしろ疎まれる可能性が高く、たとえ京○府△大の同門であっても外部候補扱いでしょうから、どうなるか心配しておりました。

しかし京○府△大の教授会はぎりぎり(?)ちゃんとしているじゃないか。今回だけは母校の教授会を見直しました、偉いぞ! 世の中まだまだ捨てたもんじゃないね。どうか教室の皆さんも地道な努力を続けてください、きっとお天道様は見ているはずです。これからは、京○府△大と信州とでよりよき関係を築き、共同研究ができればと思います。とにかくよかった、今日は信州松本で、一人で勝手に祝杯を上げようと思います。