2010年5月19日水曜日

ネズミの顔色を伺う

たまには最近読んだ論文について...

CLP (cecal ligation and puncture)という敗血症性腹膜炎のネズミモデルがあります。ネズミの盲腸を結紮/穿刺して腹膜炎を作る実験モデルです。昔、この実験を手伝っていた頃、絞扼性イレウスの臨時手術の依頼がきて、患者さんに会いに行ってびっくりしました。患者さんの顔色の悪さ、表情、肩で息している姿が、CLPモデルラットそっくりだったのです。患者さんをネズミとそっくりだなんて叱られるかも知れませんが、病室に入った瞬間、CLPネズミの姿と患者さんの表情が完全にオーバーラップしたのだから仕方ありません。痛みの研究に転じた後も、ペインクリニック外来を受診する慢性疼痛の患者さんが、神経障害性疼痛モデルのネズミとよく似た表情、雰囲気をかもし出していると思っていました。慢性痛の基礎研究と臨床の両方をやっている人は、きっと了解してくれると思います。

ですから、ネズミも痛み特有の表情をするというタイトルを見つけた時、ちょっとうれしいのと同時に、「やられたっ!!」という思いもありました(http://www.nature.com/nmeth/journal/vaop/ncurrent/abs/nmeth.1455.html)。痛いとネズミは目を細めたり、鼻や頬っぺたを膨らませたり、耳や髭を後ろに倒したりするそうですが、確かにネズミはこんな表情をすることがありますね。遺伝子いじった難しい分子生物学的なアプローチや、高度な技術を要する電気生理学的アプローチだけでなく、こうした直接的な観察研究の中にも、科学の本質はあるのかも知れません。京大霊長研の人達が、アフリカでボノボの性行動を双眼鏡で観察しているみたいにね...

ヒトでは表情筋や声帯筋が高度に発達したので、他の動物にはない笑いや怒りの表情や、言語を獲得したと言われています。でもチンパンジーが笑うのはすでにCharles Darwinが130年前にパント・コールとして報告していますし、霊長類に文法構成能力があることも証明されています。またチンパンジーでなくとも、飼い犬が何となく笑っているように見えることも、飼い主が発する言葉を理解していると思えることもありますね。ネズミもじっとみているとそれぞれに個性があって、何となく立ち振る舞いや表情が違います(http://www.amazon.co.jp/ラット一家と暮らしてみたら―ネズミたちの育児風景-服部-ゆう子/dp/4000024183)。

そもそも形質が違う他種生物を見ると、僕たちはまずはどこが彼/彼女の「顔」なのか探そうとしますね。ヒトの表情筋に進化した「原基筋群」の変化を見ることで、その生物の感覚/情動を読み解こうとしているのかも知れません。ネズミ脳はヒトと類似の情動変化をきたすので(http://www.nature.com/news/2010/100519/pdf/465282a.pdf)、痛い時の情動変化は、表情筋の原基となったネズミ顔面筋にも変化を与えるということですね。同種にせよ他種にせよ、出会った相手の生物がこちらに対して怒っていると、我が身に危険が迫り生存確率が減るので、生き延びるためには他生物の「顔色を伺う」ことが重要なはずです。あるいは自分が外敵に噛まれて、痛みで苦悶様の表情をすれば、仲間に危険を知らしめ、仲間の生存確率を増やす利点があるはずです。

さらに進化の過程で、ヒトは「表情や行動」を過剰に演技/演出すると、食物・仲間の獲得や生殖上、有利に働くことに気付くようになったのかも知れません。ヤ○ザは恐い顔で周囲を威嚇して欲しいものを手に入れようとするし、僕たちは地下鉄に乗ってきたヤ○ザが怒った顔をしていると、素早く隣の車両に移って生存確率(?)を高めようとするだろうしね。うーん、「演技や演劇の進化論的メカニズム」なんて論文がNatureに掲載される日も、そう遠くないように思いますね。

ところで昔、朝カンファレンス時に、元ボスの教授のその日機嫌がいいかどうか、表情をそれとなく伺っていました。あれって教室におけるわが身の生存確率を高めるための、本能的行動だったのでしょうか。現教室の人たちも、朝、僕の表情を窺っているのかしらと、ちょっと心配になりました。