旭○医大I教授のスガマデクス講演会の後、最終電車で大阪まで行って1泊して、翌朝、新大阪→舞子→明石大橋→淡路島に行き、整形外科領域のシンポジウムに参加してきました(http://www.sgop.edisc.jp/)(http://www.sgop.edisc.jp/program8.pdf)。淡路島は昔の鄙びた港 & 海水浴場のイメージでなく、いつも間にか高級リゾート地(http://www.westin-awaji.com/)になっていてびっくりしました。淡路島まで乗った高速バスが知り合いの会社のバスで(http://www.honshi-bus.co.jp/)、これまたびっくり、世の中狭いね。
鎮痛薬の創薬のシンポジウムで、他のシンポジストたちは大学発の創薬のための新たなセンター化構想などについて発表していました。一方僕は、なぜ鎮痛薬の治験がうまくいかないのかを、臨床の立場からお話しました。この10-20年、痛みの基礎研究は大変進歩して、痛みに関与している分子が沢山見つかったのに、臨床応用できた鎮痛法・薬はほとんどありません。新しい鎮痛薬の開発のためには、①臨床に即した動物モデルを用いること、②痛みの行動薬理だけでなく、ネズミの内なる声を聞くためにはin vivo電気生理(電気薬理?)をいろいろな部位(脊髄、脳幹他)で行うこと、③治験の前にヒトボランティアを用いた前臨床研究が重要と、僕はこれまで一貫して主張してきました。まぁ誰も聞いてくれなかったし、これからも聞いてくれないでしょうがね。
鎮痛薬が対象としているのは症状(symptom)の改善です。他方、抗腫瘍薬や降圧剤など、他の薬剤が対象としているのは所見(sign)の改善です。創薬を目指す製薬会社の研究者も、案外このあたりを混同する傾向にあり、これが鎮痛薬の治験失敗の遠因だと思います。そしてこの混同の原因を探っていくと、最終的にはcureとcareの混同に行きあたると僕は睨んでいます。勿論、僕たち医療側だってcureとcareを混同しており、care=「短時間のcure」X長期間 と考えている節があります。だからこそ週1回の神経ブロックを10年以上続けたりするのだと思います。
そして何より患者さん自身がcareとcureを混同しており、careを評価せず是非ともcureされたいと思っているのです。だからこそ、「治らないけど、一緒に頑張っていきましょう」と言うと烈火の如く怒り出す患者さんがいて、「治らない」はペインクリニックでは禁句なのです。癌の患者さんに治らないといっても(多分)問題にならないだろうに、「痛みが取れない(かも知れない)」と伝えると烈火の如く怒りだすというのは、いかにも不自然です。こうしたペインクリニック患者さんの特性についても、いろいろ考えるところはあるのですが、今回は触れません。
ところでsymptomを全く伴わないsignというものは存在せず、だからこそ「緩和」という思想が出てくるのですから、cureというのは不老不死と同様の幻想の一部に過ぎないはずです。ということは結局、疼痛研究において、患者さんが求める実現困難な願望(cure)を目的とした基礎的研究は、潜在的に臨床応用への成功確率がきわめて低い仕事ということにならざるを得ません。だからこそ、Ph.D.が「臨床に役立つ研究」と言えば言うほど、僕は胡散臭い目で見てしまうのです。単に科研費取って生活安定させたいだけじゃないの、なんてね。勿論、僕がひねくれているのだけかも知れませんがね...。
でもさぁ、基礎科学者として後世に名を残したいなら、神岡Nucleon Decay Experimetまでいかなくとも、「臨床医学」なんて小さい実学の世界にわざわざ参入しないで、人類の好奇心にドーンと迫るテーマを、思う存分追っかけてもいいのではないでしょうか...。大きなテーマであれば、多少国税を注いでもいいと思うし、その方がむしろ思いがけず臨床応用できるネタが見つかるかも知れないと思うのです。
いずれにしても臨床医は、Ph.D.の言う「臨床に役立つ(かも知れない)」という言葉を鵜呑みにしないで、基礎系論文を批判的に読み込む能力が必要です。信州で大学院生に基礎研究してもらっているのもこのためです。決して「基礎研究者モドキ」になってもらうためではありません。そういえば大昔、マグマ大使に出てきた「人間モドキ」という存在は(今の若者には古いか?)、光線が当るとドロドロに溶けて消えてしまいましたが、「臨床に役立つ(かも知れない)基礎研究モドキ」も、臨床という強い光を当てるとドロドロに溶けて、何も残らないかも知れませんね。そう考えると、ちょっと虚しい作業かも知れません。