2009年9月28日月曜日

山登り

前任地の先輩H先生が山で遭難死した。同じ職場で働いたことがないので、特別に親しかった訳ではないが、共通の匂いを感じていた。出生した地域、一度外科系専門科を辞めて麻酔科に入局したこと、学生時代に山登りしていたことなど、共通項が多かった。H先生も僕に共通の匂いを感じていた節があるが、お互いじっくりと山の話をしたことはない。恐らく、お互いが持つ共通の匂いに照れてしまったのと、前任地は山の話がそぐわない、下界的な組織であったためかも知れない。信州に移って、前任地のしがらみが抜けた後に、H先生とお話する機会があれば、じっくりと山の話ができただろうと思う。

僕が、最初に山で知り合いを亡くしたのは、大学3年生の時だった。同級生のS君が夏山縦走中に白馬岳で、赤ん坊大の落石を腰に受け滑落した。丁度、S君と親しく口をきくようになった矢先だったのでショックだった。彼と僕は、山に登る動機がよく似ていた。だから葬儀でS君のお父さんが、「Sは山が好きだったので、山で死んだのがせめてもの救いだ」という挨拶した時には、「そりゃ、違うだろう」と思った。生きている実感が欲しくて山に登っているのだから、生還できないS君は、さぞや無念でならないだろうと思った。

H先生の遭難を聞いた時、たまたま「がんと闘った科学者の記録(戸塚洋二http://www.amazon.co.jp/%E3%81%8C%E3%82%93%E3%81%A8%E9%97%98%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%A7%91%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2-%E6%88%B8%E5%A1%9A-%E6%B4%8B%E4%BA%8C/dp/4163709002)」と
「サバイバル登山家(服部文祥)http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B5%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%AB%E7%99%BB%E5%B1%B1%E5%AE%B6-%E6%9C%8D%E9%83%A8-%E6%96%87%E7%A5%A5/dp/4622072203」を読んでいた。どちらも、今の僕にはいろいろと示唆に富む本であった。

最近、山での遭難死を見聞きすると、少し羨ましく感じる時がある。職業柄、病院のベッドで、数多くのチューブを付けられて、死んでいく人を見ているからだろうか。僕達は母なる自然から遠く離れて、自ら作り出した奇妙な人工物に囲まれて生きている。深夜にもかかわらず、東京のビルの谷間の交差点を歩いている人の群れを見ていると、ヒトという存在は今後一体どうなってしまうのかと思う。

初めて動物実験した時、僕に体を摑まれ、足に痛み刺激を受けているのに、暴れようとも噛もうともしないSprague-Dawleyラットをみて吃驚した。何て不自然な生命体なのか、こんな不自然な動物から得られたデータを、ヒトに応用していいのかと思ったものだ。しかしすぐに、ヒトという存在自体が、もはや動物と呼べないくらい、自然から乖離してしまったのだと悟った。

最近の中高年の登山ブームを支えている人達は、単に高山植物を見たくて山登りしているのではなかろう。田舎の自然の中で育った団塊の世代が、人生の晩秋に至り、人工物に囲まれた都会の中では、いよいよ動物としての実感が得られなくなり、山を目指して実感を取り戻そうとしているのではなかろうか。動物としての実感が得られなければ、生きようとしている自分を経験することはできないだろう。生きようとする自分を実感できなければ、どのように死と対峙していけばいいのか。そう考えると、このブーム(?)は、たとえ遭難者が多数出ようとも、当面、終わらないのではないかと考えている。

H先生がどのような気持ちで山登りを続けていたのか、是非ともお聞きしたかった。少し俗世を超越したH先生と、今ならじっくり山の話ができたろうに、残念でならない。ご冥福をお祈りしたい。