信州大学麻酔科のK先生が、日本麻○科学会のもっとも権威あるY賞を受賞しました。まだ正式公表される前なので内緒にしてて下さいね...(といってもここに書いてしまいましたが...)。本当によかった!! おめでとうございます。世の中まだまだ捨てたもんじゃないね。今回の受賞となったK先生の仕事の大半は、前任地の札□医大でのものですが、これらを基盤に現在も信州で研究が継続・発展されているので、信州の皆さんの大いなる励みになると思います。信州大学麻酔科の2011年の一大ニュースですね。
K先生は10年近く前のある日、元ボスに呼ばれて緩和医療のチーフになるよう言い渡されました。教授室から出てきたK先生は真っ青な顔をしていたように思います。当時の麻酔科医にとって、「緩和医療に従事せよ」というのは、「北極圏のシロクマになれ」と言われるのに等しかったものね。つまりナンバーワンかも知れないけれど、氷で閉ざされた極寒の地しか与えられず、麻酔科医が住む温暖な世界からは遠く離れた荒地だったからね。
K先生はとても口惜しかったと思います。それでもやる気をなくさないで、むしろ逆境をチャンスに変えました。緩和医療という経験則だけの「北極圏医療」を、学問・サイエンスに発展させることをライフワークに据えて、その後、奮闘努力されてきました。夜中や土日を潰して、黙々と癌ネズミで実験を重ねて、業績を挙げてきました。ですから今回の受賞は当然だと思います。しかしそんなK先生ですらすんなりと受賞できず、落胆したこともあったと思います。
しかし今回の決定で、日本麻○科学会を見直しましたね。日本麻○科学会学術委員会は、ギリギリちゃんとしているじゃあないか!! もう1-2年早ければ、もっとよかったのですが、今回は受賞者が2名とのことですので、内部で喧々諤々の議論があったのかも知れません。だからこそ、今回、K先生を推してくれた選考委員会の見識に心から敬意を払います。本当にありがとうございました(本来、僕が言うべき立場ではないでしょうが...)。
夜中や土日に、誰もいない実験室で一人実験をしていると、真っ暗闇の山の中を一人で彷徨っているような不安な気持ちになります。自分の彷徨は意味のある行動なのだろうか、目指す尾根を大きく間違えているのじゃないだろうか、この道の先に本当に光はあるのだろうか...等々。人がやらないテーマだからこそライフワークになりうるのですが、人がやらないことに没頭し、かつ、その作業を継続するためには、絶えず自分の中の孤独感や不安感と闘わなければなりません。あまりに孤独な時間が長すぎると、進むのを止めて下山したり、自分の思い込みで進路が大きく逸れていくことがあります。ライフワークが成就しない所以です。だから時々、「君は間違っていないよ、自分を信じて進みなさい」と誰かに励ましてもらう必要があります。そのために僕たちは「教室」というグループを作り、その内部の仲間同士お互い励まし合い、勇気をもらったり、逆に与えたりしながら、切磋琢磨していかなければならないのだと思います。
賞がすべてではありません。しかし挫けそうになった時、賞を貰うことで再び奮い立つことができるかも知れません。改めて孤独に耐えて、ライフワークに邁進していく勇気が貰えることがあるかも知れない。モーパッサンがいうように「才能とは持続する情熱」です。人には元来、能力差はありません。情熱を持続できるかどうかが分かれ目です。賞を貰うことで情熱が持続すれば、賞を貰う意味があったというものです。
今回、日本麻○科学会によって、K先生や信州大学麻酔科に、研究を継続していく勇気と情熱が与えられたのだと思います。本当によかった、おめでとう!! そして再度、選考委員会に心から感謝したいと思います。ありがとうございました!!
2011年1月13日木曜日
2011年1月7日金曜日
我あり、故に我思う
たまには読んだ本のことでも...
正月休みに、デカルト関連の本を2冊読みました。『デカルトの誤り』(Descartes' Error)(http://www.amazon.co.jp/%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E8%AA%A4%E3%82%8A-%E6%83%85%E5%8B%95%E3%80%81%E7%90%86%E6%80%A7%E3%80%81%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AE%E8%84%B3-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AA%EF%BD%A5R%EF%BD%A5%E3%83%80%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%82%AA/dp/4480093028)と、
『デカルトの骨』(Descartes' Bones)(http://www.amazon.co.jp/%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E9%AA%A8-%E6%AD%BB%E5%BE%8C%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%A8%98-%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%88/dp/4791765753)です。
近代医学は、勿論、デカルトの心身二元論をベースにしています。また、デカルトはアリストテレス以来、情動の一種とされた「痛み」を知覚情報として捉え直しました。『デカルトの誤り』は、神経科学者の著者ダマシオが、こうしたデカルトの二元論を誤りと断じた本です。ダマシオによると、生体では心⇔脳⇔身体、そして環境との相互作用がダイナミックに起こっています。そして感情と理性は、いずれも身体の状態と深く関わった対等な脳の活動とされ、それぞれが身体状態へも影響を与えます。
生体は進化の過程で、ホメオスタシス維持のために、まずは自律神経と内分泌系を発達させましたが、このホメオスタシス維持に情動・感情が重要な役割を行っているというのが、この本の核心部分です。「進化の過程では脳のない生物は存在したが、脳や心があって身体のない生物は存在しなかった」という言葉で、Damasioの考え方が代表されます。身体と脳・心を(そして情動や理性を)分離できないということですね。「理性があるから私(身体)がある」のではなく、「身体があるから(私がいるから)、理性がある」ということですね。「我思う、故に我あり」ではなく、「我あり、故に我思う」という主張です。この本では、さらに合理的意思決定にも、心-脳-身体のダイナミックな相互作用が不可欠であるという主張など、斬新な作業仮説が一杯詰まった本でした。面白かった。
一方、『デカルトの骨』は、宗教改革・ルネサンスを経てデカルトが出現した時代背景や、デカルト主義によりフランス、イギリス、オランダ、スウェーデンなど当時のヨーロッパ諸国に激震が走り、デカルトの思想が最終的にはアメリカ独立、フランス革命の遠因になったことが書かれており、これまた大変面白かったです。確かに「思想」はあっという間に空気として世界中に広がり、時代を席巻していきますからね。
個人的に狭義な興味としては、『デカルトの誤り』の中で、アルメイダ・リマが慢性痛の治療に、前頭前野切載術(prefrontal lobotomy)を応用していたことを知りびっくりしました(Lima. Med Contemp 1952;70:539-542) (http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/13012693)。リマは、エガス・モニス(http://en.wikipedia.org/wiki/Ant%C3%B3nio_Egas_Moniz)に協力してロボトミーを開発したポルトガルの外科医です。モニスはこのロボトミーの功績(?)により、1949年ノーベル医学生理学賞を受賞しましたが、その後、この受賞が大きな問題となりました。後年、モニス自身が、ロボトミーを施行した患者の恨みのため、銃で撃たれてしまったくらいですからね。
痛みの研究者は、島(insula)や帯状回の障害で、知覚的に痛みは感じるが不快でない状態(pain asymbolia)(http://en.wikipedia.org/wiki/Pain_asymbolia)が生じることは知っていますが、前頭前野の切截術で同様のことが起こることは、あまり知られていないと思います。しかしこの事実は大変重要だと思います。前頭前野が、痛みの情動面に重要な役割を果たしているということですからね。ロボトミーに関連した研究成果は、(恐らく)医学論文では意識的に引用されないため、人目に触れなかったのかも知れません。この本の著者であるダマシオはモニスやリマと同じポルトガル人だから、ポルトガルの医学界では常識なのかも知れません。
いずれにしても正月休みに上記2冊の本を読んで、現在の科学や社会の閉塞感は、デカルト以来の理性に重きを置いた演繹的手法が、科学だけでなく広く社会一般でも、そろそろ限界に近づいてきたせいかも知れないな、などと柄にもなく考えさせられたのでした。やっぱり京大霊長研のように、アフリカでボノボを帰納的に観察している方がより科学的なのか、なんてね。
後200年もすれば、18~20世紀は、「純粋理性」によって「純粋自然」が解明されるはずだ、という????な考え方に取りつかれた、暗黒の時代とされるかも知れません。中世ヨーロッパにおけるキリスト教と同じようにね。
正月休みに、デカルト関連の本を2冊読みました。『デカルトの誤り』(Descartes' Error)(http://www.amazon.co.jp/%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E8%AA%A4%E3%82%8A-%E6%83%85%E5%8B%95%E3%80%81%E7%90%86%E6%80%A7%E3%80%81%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AE%E8%84%B3-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AA%EF%BD%A5R%EF%BD%A5%E3%83%80%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%82%AA/dp/4480093028)と、
『デカルトの骨』(Descartes' Bones)(http://www.amazon.co.jp/%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E9%AA%A8-%E6%AD%BB%E5%BE%8C%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%A8%98-%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%88/dp/4791765753)です。
近代医学は、勿論、デカルトの心身二元論をベースにしています。また、デカルトはアリストテレス以来、情動の一種とされた「痛み」を知覚情報として捉え直しました。『デカルトの誤り』は、神経科学者の著者ダマシオが、こうしたデカルトの二元論を誤りと断じた本です。ダマシオによると、生体では心⇔脳⇔身体、そして環境との相互作用がダイナミックに起こっています。そして感情と理性は、いずれも身体の状態と深く関わった対等な脳の活動とされ、それぞれが身体状態へも影響を与えます。
生体は進化の過程で、ホメオスタシス維持のために、まずは自律神経と内分泌系を発達させましたが、このホメオスタシス維持に情動・感情が重要な役割を行っているというのが、この本の核心部分です。「進化の過程では脳のない生物は存在したが、脳や心があって身体のない生物は存在しなかった」という言葉で、Damasioの考え方が代表されます。身体と脳・心を(そして情動や理性を)分離できないということですね。「理性があるから私(身体)がある」のではなく、「身体があるから(私がいるから)、理性がある」ということですね。「我思う、故に我あり」ではなく、「我あり、故に我思う」という主張です。この本では、さらに合理的意思決定にも、心-脳-身体のダイナミックな相互作用が不可欠であるという主張など、斬新な作業仮説が一杯詰まった本でした。面白かった。
一方、『デカルトの骨』は、宗教改革・ルネサンスを経てデカルトが出現した時代背景や、デカルト主義によりフランス、イギリス、オランダ、スウェーデンなど当時のヨーロッパ諸国に激震が走り、デカルトの思想が最終的にはアメリカ独立、フランス革命の遠因になったことが書かれており、これまた大変面白かったです。確かに「思想」はあっという間に空気として世界中に広がり、時代を席巻していきますからね。
個人的に狭義な興味としては、『デカルトの誤り』の中で、アルメイダ・リマが慢性痛の治療に、前頭前野切載術(prefrontal lobotomy)を応用していたことを知りびっくりしました(Lima. Med Contemp 1952;70:539-542) (http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/13012693)。リマは、エガス・モニス(http://en.wikipedia.org/wiki/Ant%C3%B3nio_Egas_Moniz)に協力してロボトミーを開発したポルトガルの外科医です。モニスはこのロボトミーの功績(?)により、1949年ノーベル医学生理学賞を受賞しましたが、その後、この受賞が大きな問題となりました。後年、モニス自身が、ロボトミーを施行した患者の恨みのため、銃で撃たれてしまったくらいですからね。
痛みの研究者は、島(insula)や帯状回の障害で、知覚的に痛みは感じるが不快でない状態(pain asymbolia)(http://en.wikipedia.org/wiki/Pain_asymbolia)が生じることは知っていますが、前頭前野の切截術で同様のことが起こることは、あまり知られていないと思います。しかしこの事実は大変重要だと思います。前頭前野が、痛みの情動面に重要な役割を果たしているということですからね。ロボトミーに関連した研究成果は、(恐らく)医学論文では意識的に引用されないため、人目に触れなかったのかも知れません。この本の著者であるダマシオはモニスやリマと同じポルトガル人だから、ポルトガルの医学界では常識なのかも知れません。
いずれにしても正月休みに上記2冊の本を読んで、現在の科学や社会の閉塞感は、デカルト以来の理性に重きを置いた演繹的手法が、科学だけでなく広く社会一般でも、そろそろ限界に近づいてきたせいかも知れないな、などと柄にもなく考えさせられたのでした。やっぱり京大霊長研のように、アフリカでボノボを帰納的に観察している方がより科学的なのか、なんてね。
後200年もすれば、18~20世紀は、「純粋理性」によって「純粋自然」が解明されるはずだ、という????な考え方に取りつかれた、暗黒の時代とされるかも知れません。中世ヨーロッパにおけるキリスト教と同じようにね。
2011年1月4日火曜日
京都 一乗寺界隈と松本 中町通り
2011年になりました、明けましておめでとうございます。医局の方々を対象としたこのブログも足掛け2年になりました。よくまあ続いたと思います。もう少しショボショボと続けて、役目が終われば止めようと思っておりますので、今しばらくのお付き合いを...
さて年末は恒例の忘年会で京都に行ってきました。京都に行っても、毎年、一乗寺界隈と三条界隈をブラブラするだけですが、それが楽しいのですね。学生時代は一乗寺界隈で生活のほとんどが事足りました。当時、週末毎に通った名画座(http://homepage2.nifty.com/bkbn/hakurankai.html)はつぶれ、スーパーマーケットになったし、Jass喫茶(言葉自体が死語になりましたが...)は普通の喫茶店に替り、アナーキーな雰囲気を持っていた本屋は、今ではすっかりおしゃれな、全国的に有名なお店になってしまいました(http://www.keibunsha-books.com/)。それでも一乗寺の街並みは30年前とほとんど変わらず、昔の定食屋やラーメン屋も多く残っていて、ホッとします。
以前、H薬科大学のN先生に連れて行ってもらった戸越銀座や、京都の寺町通り、札幌の狸小路など、気に入っている商店街は沢山あるのですが、商店街としてはしょぼい一乗寺界隈が一番好きです。僕と同じように、学生時代過ごした京都を離れた後も、一乗寺界隈を忘れられない人が多いようです(http://www.kanshin.com/keyword/303334)。一乗寺や修学院周辺は、京都の中心街のように排他的でなく、地元の方々と、4-5年でいなくなる学生たちと、間違って迷い込んだ観光客たちが、うまく調和して独特の雰囲気を醸し出しているからだと思います。
終の住まいである松本の、中町通りがもう少し東に延びて、恵文社のような本屋や、もう少しゆったり寛げるカフェができれば、中町通り=(一乗寺界隈+寺町通り)/2みたいになって、僕にとってはベストな空間になるのですが...そうなるまでは、毎年、仕事納めの翌日に、京都一乗寺をブラブラした後、東山三条の帆布屋さん(http://www.ichizawashinzaburohanpu.co.jp/cgi-bin/index.cgi)を覘く生活が続くように思います。だから、もっともっと頑張ってくれい、中町通り!!(http://www.mcci.or.jp/www/nakamati/)と言いたいですね。
さて年末は恒例の忘年会で京都に行ってきました。京都に行っても、毎年、一乗寺界隈と三条界隈をブラブラするだけですが、それが楽しいのですね。学生時代は一乗寺界隈で生活のほとんどが事足りました。当時、週末毎に通った名画座(http://homepage2.nifty.com/bkbn/hakurankai.html)はつぶれ、スーパーマーケットになったし、Jass喫茶(言葉自体が死語になりましたが...)は普通の喫茶店に替り、アナーキーな雰囲気を持っていた本屋は、今ではすっかりおしゃれな、全国的に有名なお店になってしまいました(http://www.keibunsha-books.com/)。それでも一乗寺の街並みは30年前とほとんど変わらず、昔の定食屋やラーメン屋も多く残っていて、ホッとします。
以前、H薬科大学のN先生に連れて行ってもらった戸越銀座や、京都の寺町通り、札幌の狸小路など、気に入っている商店街は沢山あるのですが、商店街としてはしょぼい一乗寺界隈が一番好きです。僕と同じように、学生時代過ごした京都を離れた後も、一乗寺界隈を忘れられない人が多いようです(http://www.kanshin.com/keyword/303334)。一乗寺や修学院周辺は、京都の中心街のように排他的でなく、地元の方々と、4-5年でいなくなる学生たちと、間違って迷い込んだ観光客たちが、うまく調和して独特の雰囲気を醸し出しているからだと思います。
終の住まいである松本の、中町通りがもう少し東に延びて、恵文社のような本屋や、もう少しゆったり寛げるカフェができれば、中町通り=(一乗寺界隈+寺町通り)/2みたいになって、僕にとってはベストな空間になるのですが...そうなるまでは、毎年、仕事納めの翌日に、京都一乗寺をブラブラした後、東山三条の帆布屋さん(http://www.ichizawashinzaburohanpu.co.jp/cgi-bin/index.cgi)を覘く生活が続くように思います。だから、もっともっと頑張ってくれい、中町通り!!(http://www.mcci.or.jp/www/nakamati/)と言いたいですね。
2010年12月12日日曜日
26年振りのピッケルとアイゼン
昨日、医学部山岳部の皆さんと一緒に五竜岳遠見尾根(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AB%9C%E5%B2%B3)で雪上訓練(雪訓:通称 せっくん)に行ってまいりました。この歳になって、何を今さら雪訓(?)ということで、麻酔科山岳部の諸君には声をかけずらかったし、僕自身、行くべきかどうか迷ったのですが、行ってよかったぞ、せっくん!?

午前中から、いろいろなヴァージョンの滑落停止練習に参加しました。実際には、アイスバーン雪壁を滑落すれば、まぁ止まらんし命はないわな、と思いながらも、26年振りに持ったピッケルの感触が心地よかったです。久し振りにヘルメットもかぶれて楽しかったです。26年以上前ですが、僕が所属していた山岳部所有のヘルメットは、先輩が工事現場からもらってきた(自主的にもらってきた?)白ヘルに、「闘争」とか「○■派(セクトの名前)」とか書かれたものでした。先輩たちは、下界で振り回していたゲバ棒を、ピッケルに持ち替えて山に登っていたのですね。
せっくんの後半は、これまた26年振りにアイゼンを履いて、雪壁の登攀練習をやりました。前日買った12本歯のアイゼンは、昔よりかなり進歩しており、これなら中高年をどこにでも連れて行ってくれそうでしたね。若い頃、春は残雪斜面で、夏は剣岳の定着合宿で、そして初冬は滋賀の比良山系で「せっくん」をやり、冬山に備えました。実際、そんな学習効果が発揮される山々を目指してはいなかったのですがね... それでも冬山でザイルを出す場面では、いつも頭の中で「せっくん」の学習内容を反芻していましたね。
今から思えば、「せっくん」とは麻酔/救急におけるACLS(Advanced Cardiovascular Life Support)のようなものだったのですね。違いは、自分自身が蘇生される側に回るかも知れないので、そうならない方法を学ぶということでしょうか。今回の訓練の最後に、ビーコン(beacon)を使って雪崩遭難者救助の練習をしました。ビーコンは26年前はなかったですね。富山県警が1988年に導入し、総務省や警察庁が高性能のビーコンを開発したそうです(http://www.soumu.go.jp/soutsu/hokuriku/resarch/houkoku.pdf)。ACLSが5年毎に更新されるように、「せっくん」も26年の間に、かなり進歩しているのでした。
「せっくん」の合間に、唐松岳がチラッと見えましたが、残念ながら鹿島槍は見えませんでした。午後からは吹雪いてきたので、オープンしたばかりの五竜スキー場アルプス平のゲレンデ横を、膝上まで沈みながら下山したのでした。麻酔科山岳部の諸君、次はいよいよ年末年始の燕岳(http://www.enzanso.co.jp/sansou/ivent/toukieigyou.htm)と、2月の上高地(スノーシューで)でしょうか。

午前中から、いろいろなヴァージョンの滑落停止練習に参加しました。実際には、アイスバーン雪壁を滑落すれば、まぁ止まらんし命はないわな、と思いながらも、26年振りに持ったピッケルの感触が心地よかったです。久し振りにヘルメットもかぶれて楽しかったです。26年以上前ですが、僕が所属していた山岳部所有のヘルメットは、先輩が工事現場からもらってきた(自主的にもらってきた?)白ヘルに、「闘争」とか「○■派(セクトの名前)」とか書かれたものでした。先輩たちは、下界で振り回していたゲバ棒を、ピッケルに持ち替えて山に登っていたのですね。
せっくんの後半は、これまた26年振りにアイゼンを履いて、雪壁の登攀練習をやりました。前日買った12本歯のアイゼンは、昔よりかなり進歩しており、これなら中高年をどこにでも連れて行ってくれそうでしたね。若い頃、春は残雪斜面で、夏は剣岳の定着合宿で、そして初冬は滋賀の比良山系で「せっくん」をやり、冬山に備えました。実際、そんな学習効果が発揮される山々を目指してはいなかったのですがね... それでも冬山でザイルを出す場面では、いつも頭の中で「せっくん」の学習内容を反芻していましたね。
今から思えば、「せっくん」とは麻酔/救急におけるACLS(Advanced Cardiovascular Life Support)のようなものだったのですね。違いは、自分自身が蘇生される側に回るかも知れないので、そうならない方法を学ぶということでしょうか。今回の訓練の最後に、ビーコン(beacon)を使って雪崩遭難者救助の練習をしました。ビーコンは26年前はなかったですね。富山県警が1988年に導入し、総務省や警察庁が高性能のビーコンを開発したそうです(http://www.soumu.go.jp/soutsu/hokuriku/resarch/houkoku.pdf)。ACLSが5年毎に更新されるように、「せっくん」も26年の間に、かなり進歩しているのでした。
「せっくん」の合間に、唐松岳がチラッと見えましたが、残念ながら鹿島槍は見えませんでした。午後からは吹雪いてきたので、オープンしたばかりの五竜スキー場アルプス平のゲレンデ横を、膝上まで沈みながら下山したのでした。麻酔科山岳部の諸君、次はいよいよ年末年始の燕岳(http://www.enzanso.co.jp/sansou/ivent/toukieigyou.htm)と、2月の上高地(スノーシューで)でしょうか。
2010年11月12日金曜日
徳島で生まれた男じゃ-さかい
少し前ですが、臨床麻酔学会(http://jsca.umin.jp/scientific_meeting/index.html)で徳島に行ってきました。僕は徳島市内から10数km、西に向かった所で生まれ、小学校低学年まで過ごしました。徳島には折につけ帰ってはいましたが、それでも6-7年振りでした。朝、県庁前からジョギングをしました。初日は、新町ボードウォ-クという小さな川沿いの道を眉山(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%89%E5%B1%B1)のロープーウェイ口まで往復しました。眉山はとても近いことに気づきましたね。2日目は、末広大橋
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E5%BA%83%E5%A4%A7%E6%A9%8B)を横に見ながら、小松島方面まで往復しました。末広大橋を越えるともう外洋であるとともに、徳島から小松島が近いことにも吃驚しました。子供の頃は、小松島なんて外国のように思っていたのに。
初日の昼に入ったうどん屋で、店員さんやお客さんが喋る、nativeな徳島弁をすべて理解できる自分に気づきました。しかも僕自身が、nativeな徳島弁でちゃんとお礼を言えるのでした。言語機能って、感覚性入力(音/イントネーション→意味→理解)に対して、同様の音/イントネーションを喉頭筋を使って出力することだと、今さらながらに感じ入りましたね。この反射に近い応答を、無意識に近いレベルでできるのがnative speakerということになります。自転車に乗るのと一緒ですね。少し古い論文ですが、小さい頃に第二外国語を学んだ人は、Broca中枢とWernicke中枢の共通部分を使って、第一および第二学国語を喋っているが、成人してから第二外国語を学んだ人は、第一および第二外国語の理解と発語が、それぞれの言語中枢内の別々の部位を使っているという論文がありました(http://www.nature.com/nature/journal/v388/n6638/full/388171a0.html)。つまり、成人してから外国語を学ぶと、新たな言語用のBroca中枢とWernicke中枢を形成しているということになります。これに倣うと、僕の徳島弁/関西弁脳は共通の言語中枢部内にあるが、北海道弁脳は少し離れた部分にあり、英語脳はかなり離れた、しかもきわめて限局した部分にあるということになります。
うーん、何年も使わないのにいきなり徳島弁を聞いても、ちゃんと理解できるだけでなく、正確な音/イントネーションの徳島弁を出力できるのです。これって、記憶の一番深いところと繋がった機能なのでしょうね。ということは、僕が脳卒中にでもなってretrograde amnesiaになったら、徳島弁でしか喋れなくなるのでしょうか。あるいは少しdementiaが混じってきて、最近の記憶が消失しやすくなると、徳島弁/関西弁しか喋れなくなるのでしょうか。
最近僕は、医局でちょくちょく関西弁が出ることがあるのですが、これってdementiaによる記憶障害の始まりなのでしょうか!? 徳島弁が出るようになったら、かなりの危険信号ということになりますね。徳島でうどんをすすりながら、ちょっと心配になったのでした。
以上、(毎度のことではありますが)臨床麻酔学会とは全然関係ない話に終始しました。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E5%BA%83%E5%A4%A7%E6%A9%8B)を横に見ながら、小松島方面まで往復しました。末広大橋を越えるともう外洋であるとともに、徳島から小松島が近いことにも吃驚しました。子供の頃は、小松島なんて外国のように思っていたのに。
初日の昼に入ったうどん屋で、店員さんやお客さんが喋る、nativeな徳島弁をすべて理解できる自分に気づきました。しかも僕自身が、nativeな徳島弁でちゃんとお礼を言えるのでした。言語機能って、感覚性入力(音/イントネーション→意味→理解)に対して、同様の音/イントネーションを喉頭筋を使って出力することだと、今さらながらに感じ入りましたね。この反射に近い応答を、無意識に近いレベルでできるのがnative speakerということになります。自転車に乗るのと一緒ですね。少し古い論文ですが、小さい頃に第二外国語を学んだ人は、Broca中枢とWernicke中枢の共通部分を使って、第一および第二学国語を喋っているが、成人してから第二外国語を学んだ人は、第一および第二外国語の理解と発語が、それぞれの言語中枢内の別々の部位を使っているという論文がありました(http://www.nature.com/nature/journal/v388/n6638/full/388171a0.html)。つまり、成人してから外国語を学ぶと、新たな言語用のBroca中枢とWernicke中枢を形成しているということになります。これに倣うと、僕の徳島弁/関西弁脳は共通の言語中枢部内にあるが、北海道弁脳は少し離れた部分にあり、英語脳はかなり離れた、しかもきわめて限局した部分にあるということになります。
うーん、何年も使わないのにいきなり徳島弁を聞いても、ちゃんと理解できるだけでなく、正確な音/イントネーションの徳島弁を出力できるのです。これって、記憶の一番深いところと繋がった機能なのでしょうね。ということは、僕が脳卒中にでもなってretrograde amnesiaになったら、徳島弁でしか喋れなくなるのでしょうか。あるいは少しdementiaが混じってきて、最近の記憶が消失しやすくなると、徳島弁/関西弁しか喋れなくなるのでしょうか。
最近僕は、医局でちょくちょく関西弁が出ることがあるのですが、これってdementiaによる記憶障害の始まりなのでしょうか!? 徳島弁が出るようになったら、かなりの危険信号ということになりますね。徳島でうどんをすすりながら、ちょっと心配になったのでした。
以上、(毎度のことではありますが)臨床麻酔学会とは全然関係ない話に終始しました。
2010年11月2日火曜日
信州のほうに流れ星が落ちた
2010年の初期研修医のマッチング結果が出たようです(http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/hotnews/int/201011/517247.html)。都会の大学病院は充足率が高いようですが、地方国立大学は苦戦しているようです。それでも和○山医大や愛△大学のように、都会の大学に伍して頑張っているところがありますので、各大学の取り組みで挽回できる可能性もあるのだと思います。しかし解せないのは、僕の母校の京◆府▽大です。充足率100%なのですが、僕の卒業した24-5年前に比べて教育システムがよくなったとは聞かないのに、一体全体どうしたことでしょう。学部教育も卒後教育も、そもそも教育=放任という思想の大学だったように思います。学生/研修医は放牧しておくと勝手に野草を見つけて食べて、野原を走り回れる体力を持った医師に育つだろう、ってな大学だったのに...そんな大学に初期研修医が集まるのは、どうも解せません。
もしかしたら、京◆府▽大病院で研修したいというより、古い歴史があってまあ都会でもある京◆で暮らしたいけど、京◆大学は敷居が高いので、京◆府▽大にしとこうかという感じでしょうか。それって、大学受験の時の京◆府▽大の受験生の志望動機にそっくりな気がしますね。僕もそうでした。もしかしたら初期研修医のマッチングって、医学生の医学部再受験の疑似体験なのかも知れませんね。6年前の医学部受験で第一志望の大学だった病院を、初期研修のマッチングの第一志望にしている人って、結構いるのではないでしょうか。そう考えると地方大学や、旧帝大でも地方っぽい北●道大や東□大の充足率が低いのが、何となく納得できるような気がします。そもそも、医学部の再受験を疑似体験する気がない人は、初期研修に最初から市中病院を選ぶ傾向にあるのかも知れません。
初期研修はともかく、研究/教育機関に籍を置こうとする人は、後期研修先の大学をどこにするかが重要になります。都会で初期研修をしても、地方の母校に帰るというのは、選択肢の一つになると思うのですが、信州にはなかなか帰ってきてくれません。僕たちの努力が足りないのかも知れません。信州大学の卒後研修センター長のA教授とお話していて、信大卒業の初期研修医に「信州に帰って来ないか」メッセージを送ってみては、というアイデアが出ました。来年以降は、信大の全教授のサイン付きで、信州を離れた初期研修医たちに手紙を送ることになるかも知れません。
いずれの研究/教育機関にせよ、教室と個人が共通の目標を持ち、世界を目指しさえすれば、世界に伍していく研究/臨床ができます。だから僕は、東京や都会で初期研修をした信大出身や信州出身者は、ぜひ矢野顕子(宮沢和史作詞作曲)の「中央線」(http://www.youtube.com/watch?v=ZLuCtFmaqcg)に倣って、「信州のほうに流れ星が落ちた 中央(本)線に乗って 松本に帰っておいでよ」、といいたいのですが...
これから少し寒くなりますが、清々しい季節です。信州大学病院から見える、常念岳をはじめとした北アルプスが雪化粧になりました。信大出身者、信州出身者は、ぜひ信州に帰っておいでよ。待っています。
もしかしたら、京◆府▽大病院で研修したいというより、古い歴史があってまあ都会でもある京◆で暮らしたいけど、京◆大学は敷居が高いので、京◆府▽大にしとこうかという感じでしょうか。それって、大学受験の時の京◆府▽大の受験生の志望動機にそっくりな気がしますね。僕もそうでした。もしかしたら初期研修医のマッチングって、医学生の医学部再受験の疑似体験なのかも知れませんね。6年前の医学部受験で第一志望の大学だった病院を、初期研修のマッチングの第一志望にしている人って、結構いるのではないでしょうか。そう考えると地方大学や、旧帝大でも地方っぽい北●道大や東□大の充足率が低いのが、何となく納得できるような気がします。そもそも、医学部の再受験を疑似体験する気がない人は、初期研修に最初から市中病院を選ぶ傾向にあるのかも知れません。
初期研修はともかく、研究/教育機関に籍を置こうとする人は、後期研修先の大学をどこにするかが重要になります。都会で初期研修をしても、地方の母校に帰るというのは、選択肢の一つになると思うのですが、信州にはなかなか帰ってきてくれません。僕たちの努力が足りないのかも知れません。信州大学の卒後研修センター長のA教授とお話していて、信大卒業の初期研修医に「信州に帰って来ないか」メッセージを送ってみては、というアイデアが出ました。来年以降は、信大の全教授のサイン付きで、信州を離れた初期研修医たちに手紙を送ることになるかも知れません。
いずれの研究/教育機関にせよ、教室と個人が共通の目標を持ち、世界を目指しさえすれば、世界に伍していく研究/臨床ができます。だから僕は、東京や都会で初期研修をした信大出身や信州出身者は、ぜひ矢野顕子(宮沢和史作詞作曲)の「中央線」(http://www.youtube.com/watch?v=ZLuCtFmaqcg)に倣って、「信州のほうに流れ星が落ちた 中央(本)線に乗って 松本に帰っておいでよ」、といいたいのですが...
これから少し寒くなりますが、清々しい季節です。信州大学病院から見える、常念岳をはじめとした北アルプスが雪化粧になりました。信大出身者、信州出身者は、ぜひ信州に帰っておいでよ。待っています。
2010年10月21日木曜日
San Diego 再び
アメリカ麻酔科学会(ASA)でSan Diegoに行ってきました。3年前、僕が信州に赴任する直前の2007年11月3日~7日に、Neuroscience MeetingでSan Diegoを訪れました。ですから丁度3年振りのSan Diegoということですね。この間の教室やわが身の変化を思い起こし、感慨深いものがありました。今回は教室の皆さんと一緒に、空港よりダウンタウン寄りのPacific HW沿いの長期滞在用のホテル(http://www.marriott.com/hotels/travel/sanph-residence-inn-san-diego-downtown/)をルームシェアして、自炊できて楽しかったです。
3年前のNeuroscienceの時には、湾の西側のヨットクラブ付近のホテル (http://book.bestwestern.com/bestwestern/propertyDining.do?propertyCode=05226&group=false&disablenav=false&hideProgressBar=false&photoCategory=DINE)に泊まりました。このホテルは10数年前の留学中、同僚の釣りキチの先生がホテル前から出る釣り舟に乗って新鮮な魚を持ち帰るのを、ご飯を炊いて待っていた思い出のホテルです。3年前に泊まった時には、昔近所にあったスーパーマーケットやチャイニーズレストランがすべて潰れていて、がっかりしました。
早朝、西に向かって、昔泊まったホテルの辺りまで、往復で15~6 km ジョギングをしました。San Diegoの湾岸のジョギングコースは高低差がなく、潮風が大変気持ちよいのです。3年前にも同じコースを、逆の東側に向かってジョギングしたのですが、その時、空港西の小さいモールに、タイレストランと日本レストランが"coming soon"だと書かれていたのが気になっておりました。今回、両レストランがちゃんと存在しているのを確認でき(http://www.spicesbaythai.com/)(http://sushiya-sd.com/ )、なぜかホッとしました。多分3年前に、新たに赴任する教室とこの2つのレストランとの開業とを重ね合わせて、心のどこかで気になっていたのだと思いますね。次回、San Diegoに来る時には必ず寄ってみようと思います。それまでは潰れずに頑張っていて欲しいと思います。
さて、この3年間に信州からのASAへの演題数は、2008年 3題、2009年 8題、2010年 12題と着実に増え、ポスター作成・発表技術も向上してきました。教室からの参加者も5名、11名、15名と増えました。日本ではO大学に次いでの演題数だそうで、O大学は信州の倍近くの医局員がいるので、演題の生産性としては僕たちの方が日本一かも知れませんね(!?)。まぁ、かなり取って付けた屁理屈ですが、ともあれ演題数を競うつもりはありません。この3年間、教室の皆さんには、たとえ日本に住む医師/研究者であっても、研究成果を英語で発表し続けなければならないという、僕たちの宿命を理解してもらうために、ASAに参加してもらったのです。それくらい信州が内向きになっていると思えたのです。
長野県で何か新しい医療を確立するためには、日本で評価されないといけない、日本で評価されるためには世界から評価されないといけない。つまり日本のどこにせよ、自分たちが正しいと思う医療/医学を、新たに確立するためには、世界中から認められなくてはならないという当たり前のことを、僕たちはしばしば忘れてしまいます。このことを忘れないために国際学会に行って、自分たちの研究に対する批判を英語で受け、討議を英語で行う必要があります。井戸の中の蛙として生きていくためには、井戸の外でりっぱな蛙として認めてもらうことが前提となります。そのために、国際学会での発表や英語論文の作成は不可欠です。
これまでの数年間は与えられたテーマでデータを取り、ASAで発表するだけで可としていましたが、これからは、(1) 自分のアイデアで臨床 & 基礎研究を行い発表していくこと、(2) 一人で2,3題の演題を出すことに躊躇しないこと、そして(3) 発表した内容を必ず論文化することです。(3) がもっとも重要で、論文化せずに数年経つと、発表内容の価値がどんどん低下してしまうことを肝に銘じておいてください。若い人たちの論文化については、勿論スタッフも手伝いますので頑張ってください。
それにしてもほとんどすべての領域のポスターセッションで、アジア人、特に日本人の若い発表者が目立ちました。つまり、世界の麻酔科学の研究の一翼を日本人(特に若者)が担っているということですね。そして演題数から考えると、今後、信州大の貢献も十分可能だということになります。新研修制度以来、低下しつつはあるものの、この研究意欲の高さが日本、そして信州大の麻酔科の財産です。これがなくなれば、世界の麻酔科領域における、日本(そして信州大)の存在意義がなくなるといっていいかも知れません。
このため今後、教室の皆さんにお願したいのは、研究意欲を高く保ちながら、論文化のための英文作成能力を高めるよう、毎日、少しの時間でいいので努力してもらうことです。地道な努力を数年続けると、海外での発表や英語論文作成能力が身についてくるはずです。とにかく日々継続することが重要です。騙されたと思ってやってみてください。先輩たちは皆、そうして成長してきたのですから。
来年のASAは10/14-19(Chicago)です。またルームシェアして過ごす予定ですので、いいデータを持って皆でChicagoに行きましょう!! そのために、帰国後すぐに来年に向けての新しいスタートを切りましょう。
3年前のNeuroscienceの時には、湾の西側のヨットクラブ付近のホテル (http://book.bestwestern.com/bestwestern/propertyDining.do?propertyCode=05226&group=false&disablenav=false&hideProgressBar=false&photoCategory=DINE)に泊まりました。このホテルは10数年前の留学中、同僚の釣りキチの先生がホテル前から出る釣り舟に乗って新鮮な魚を持ち帰るのを、ご飯を炊いて待っていた思い出のホテルです。3年前に泊まった時には、昔近所にあったスーパーマーケットやチャイニーズレストランがすべて潰れていて、がっかりしました。
早朝、西に向かって、昔泊まったホテルの辺りまで、往復で15~6 km ジョギングをしました。San Diegoの湾岸のジョギングコースは高低差がなく、潮風が大変気持ちよいのです。3年前にも同じコースを、逆の東側に向かってジョギングしたのですが、その時、空港西の小さいモールに、タイレストランと日本レストランが"coming soon"だと書かれていたのが気になっておりました。今回、両レストランがちゃんと存在しているのを確認でき(http://www.spicesbaythai.com/)(http://sushiya-sd.com/ )、なぜかホッとしました。多分3年前に、新たに赴任する教室とこの2つのレストランとの開業とを重ね合わせて、心のどこかで気になっていたのだと思いますね。次回、San Diegoに来る時には必ず寄ってみようと思います。それまでは潰れずに頑張っていて欲しいと思います。
さて、この3年間に信州からのASAへの演題数は、2008年 3題、2009年 8題、2010年 12題と着実に増え、ポスター作成・発表技術も向上してきました。教室からの参加者も5名、11名、15名と増えました。日本ではO大学に次いでの演題数だそうで、O大学は信州の倍近くの医局員がいるので、演題の生産性としては僕たちの方が日本一かも知れませんね(!?)。まぁ、かなり取って付けた屁理屈ですが、ともあれ演題数を競うつもりはありません。この3年間、教室の皆さんには、たとえ日本に住む医師/研究者であっても、研究成果を英語で発表し続けなければならないという、僕たちの宿命を理解してもらうために、ASAに参加してもらったのです。それくらい信州が内向きになっていると思えたのです。
長野県で何か新しい医療を確立するためには、日本で評価されないといけない、日本で評価されるためには世界から評価されないといけない。つまり日本のどこにせよ、自分たちが正しいと思う医療/医学を、新たに確立するためには、世界中から認められなくてはならないという当たり前のことを、僕たちはしばしば忘れてしまいます。このことを忘れないために国際学会に行って、自分たちの研究に対する批判を英語で受け、討議を英語で行う必要があります。井戸の中の蛙として生きていくためには、井戸の外でりっぱな蛙として認めてもらうことが前提となります。そのために、国際学会での発表や英語論文の作成は不可欠です。
これまでの数年間は与えられたテーマでデータを取り、ASAで発表するだけで可としていましたが、これからは、(1) 自分のアイデアで臨床 & 基礎研究を行い発表していくこと、(2) 一人で2,3題の演題を出すことに躊躇しないこと、そして(3) 発表した内容を必ず論文化することです。(3) がもっとも重要で、論文化せずに数年経つと、発表内容の価値がどんどん低下してしまうことを肝に銘じておいてください。若い人たちの論文化については、勿論スタッフも手伝いますので頑張ってください。
それにしてもほとんどすべての領域のポスターセッションで、アジア人、特に日本人の若い発表者が目立ちました。つまり、世界の麻酔科学の研究の一翼を日本人(特に若者)が担っているということですね。そして演題数から考えると、今後、信州大の貢献も十分可能だということになります。新研修制度以来、低下しつつはあるものの、この研究意欲の高さが日本、そして信州大の麻酔科の財産です。これがなくなれば、世界の麻酔科領域における、日本(そして信州大)の存在意義がなくなるといっていいかも知れません。
このため今後、教室の皆さんにお願したいのは、研究意欲を高く保ちながら、論文化のための英文作成能力を高めるよう、毎日、少しの時間でいいので努力してもらうことです。地道な努力を数年続けると、海外での発表や英語論文作成能力が身についてくるはずです。とにかく日々継続することが重要です。騙されたと思ってやってみてください。先輩たちは皆、そうして成長してきたのですから。
来年のASAは10/14-19(Chicago)です。またルームシェアして過ごす予定ですので、いいデータを持って皆でChicagoに行きましょう!! そのために、帰国後すぐに来年に向けての新しいスタートを切りましょう。
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