2010年6月2日水曜日

福岡は暑い アジアはもっと暑い

第57回日本麻酔科学会で福岡に来ています。朝、軽くジョギングしたのですが、福岡は蒸し暑くて汗ダラダラになりました。

ようやくスライドをほぼ仕上げ、夜には招待されていたAACA(アジア・オーストラレーシア麻酔科学会)関連のパーティに出ました。フィリピン、ニュージーランド、マレーシアの麻酔科医たちを同じテーブルで接待し、他にも中国、韓国の人たちと話をしました。皆さん英語が上手で、特に中国の若い人たちが積極的でしたね。国の勢いというのは、結局、個々人の積極性を反映しているのだと妙に納得しました。このままだと10年以内に、日本は経済だけでなく、医学の分野で確実に中国に追いつかれると思いましたね。

ではどうしたらいいのか。こうした状況に陥った原因を考えると、やっぱり「ゆとり教育」に行き着くと思います。この点では国立□研究センター理事長の嘉○孝▲先生に完全に同意します。ですから「反ゆとり教育」しか、建て直す方法はないと思います。つまり若いうちに臨床・研究を叩き込み、英語論文の作成能力と、国際学会のシンポジウムや講演を英語でしっかりできる人材を育成する以外に、日本の麻酔科学が生き残る道はないと思うのです。

日本の麻酔科学は、1950年の日米連合医学教育者協議会(Joint Meeting ofAmerican and Japanese Medical Educators、東京開催)を起点とします。 この協議会は、第二次世界大戦前後に、旧態依然としたドイツ医学に依存してしまい、世界の潮流から取り残されてしまった日本の状態を建て直すため、米国からの一方的、強制的通達で行われました。当時の日本全国の医学部の外科教授たちは、米国からこの協議会に出席することを強要されました。そしてアメリカにおける麻酔科学の圧倒的な進歩を目の当たりにして、東大をはじめ日本の大学指導者は衝撃を受けたのです。こうして、麻酔科の設置が本邦における外科学の発展のために急務であることが広く認識されたのです。信州大学でもこの後、この時来日していたアメリカのDr. Sakladのもとに清○誠▲先生が留学し、帰国後、麻酔科初代教授として麻酔診療がスタートしたのです。

それから50年経ち、2000年に入って日本の麻酔科学はAnesthesiolgoy誌への投稿数でもアメリカに次ぐ勢力になったにもかかわらず、最近の5年間で大きく低迷するようになりました。つまり、まさに初期研修制度や麻酔科医のフリーランス化と時期が一致して、日本の麻酔科学の停滞が始まったのです。僕の前任地でもこの5年で大学院に進む人が減り、夜や土日に研究したり勉強する人が激減しました。今の若者麻酔科医と話をしていても、新たな学問分野を切り拓こうという人や、新たな技術革新を起こそうというような発想を持った人が少ないような気がします。

50年以上前の日米連合医学教育者協議会の時点に立ち戻り、今一度、日本の麻酔科学を立て直すべき時期にきたのだと思います。そのために、信州の麻酔科の貢献も必要だと思います。AACA関連のパーティで、中国の若者と話ししながら、「精一杯サポートするので、信州の若者よ、土日を潰してでも、日本麻酔科学が世界をリードできるように頑張ってくれい」と、心から願ったのでした。