2010年12月12日日曜日

26年振りのピッケルとアイゼン

昨日、医学部山岳部の皆さんと一緒に五竜岳遠見尾根(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AB%9C%E5%B2%B3)で雪上訓練(雪訓:通称 せっくん)に行ってまいりました。この歳になって、何を今さら雪訓(?)ということで、麻酔科山岳部の諸君には声をかけずらかったし、僕自身、行くべきかどうか迷ったのですが、行ってよかったぞ、せっくん!? 








午前中から、いろいろなヴァージョンの滑落停止練習に参加しました。実際には、アイスバーン雪壁を滑落すれば、まぁ止まらんし命はないわな、と思いながらも、26年振りに持ったピッケルの感触が心地よかったです。久し振りにヘルメットもかぶれて楽しかったです。26年以上前ですが、僕が所属していた山岳部所有のヘルメットは、先輩が工事現場からもらってきた(自主的にもらってきた?)白ヘルに、「闘争」とか「○■派(セクトの名前)」とか書かれたものでした。先輩たちは、下界で振り回していたゲバ棒を、ピッケルに持ち替えて山に登っていたのですね。

せっくんの後半は、これまた26年振りにアイゼンを履いて、雪壁の登攀練習をやりました。前日買った12本歯のアイゼンは、昔よりかなり進歩しており、これなら中高年をどこにでも連れて行ってくれそうでしたね。若い頃、春は残雪斜面で、夏は剣岳の定着合宿で、そして初冬は滋賀の比良山系で「せっくん」をやり、冬山に備えました。実際、そんな学習効果が発揮される山々を目指してはいなかったのですがね... それでも冬山でザイルを出す場面では、いつも頭の中で「せっくん」の学習内容を反芻していましたね。

今から思えば、「せっくん」とは麻酔/救急におけるACLS(Advanced Cardiovascular Life Support)のようなものだったのですね。違いは、自分自身が蘇生される側に回るかも知れないので、そうならない方法を学ぶということでしょうか。今回の訓練の最後に、ビーコン(beacon)を使って雪崩遭難者救助の練習をしました。ビーコンは26年前はなかったですね。富山県警が1988年に導入し、総務省や警察庁が高性能のビーコンを開発したそうです(http://www.soumu.go.jp/soutsu/hokuriku/resarch/houkoku.pdf)。ACLSが5年毎に更新されるように、「せっくん」も26年の間に、かなり進歩しているのでした。

「せっくん」の合間に、唐松岳がチラッと見えましたが、残念ながら鹿島槍は見えませんでした。午後からは吹雪いてきたので、オープンしたばかりの五竜スキー場アルプス平のゲレンデ横を、膝上まで沈みながら下山したのでした。麻酔科山岳部の諸君、次はいよいよ年末年始の燕岳(http://www.enzanso.co.jp/sansou/ivent/toukieigyou.htm)と、2月の上高地(スノーシューで)でしょうか。

2010年11月12日金曜日

徳島で生まれた男じゃ-さかい

少し前ですが、臨床麻酔学会(http://jsca.umin.jp/scientific_meeting/index.html)で徳島に行ってきました。僕は徳島市内から10数km、西に向かった所で生まれ、小学校低学年まで過ごしました。徳島には折につけ帰ってはいましたが、それでも6-7年振りでした。朝、県庁前からジョギングをしました。初日は、新町ボードウォ-クという小さな川沿いの道を眉山(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%89%E5%B1%B1)のロープーウェイ口まで往復しました。眉山はとても近いことに気づきましたね。2日目は、末広大橋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E5%BA%83%E5%A4%A7%E6%A9%8B)を横に見ながら、小松島方面まで往復しました。末広大橋を越えるともう外洋であるとともに、徳島から小松島が近いことにも吃驚しました。子供の頃は、小松島なんて外国のように思っていたのに。

初日の昼に入ったうどん屋で、店員さんやお客さんが喋る、nativeな徳島弁をすべて理解できる自分に気づきました。しかも僕自身が、nativeな徳島弁でちゃんとお礼を言えるのでした。言語機能って、感覚性入力(音/イントネーション→意味→理解)に対して、同様の音/イントネーションを喉頭筋を使って出力することだと、今さらながらに感じ入りましたね。この反射に近い応答を、無意識に近いレベルでできるのがnative speakerということになります。自転車に乗るのと一緒ですね。少し古い論文ですが、小さい頃に第二外国語を学んだ人は、Broca中枢とWernicke中枢の共通部分を使って、第一および第二学国語を喋っているが、成人してから第二外国語を学んだ人は、第一および第二外国語の理解と発語が、それぞれの言語中枢内の別々の部位を使っているという論文がありました(http://www.nature.com/nature/journal/v388/n6638/full/388171a0.html)。つまり、成人してから外国語を学ぶと、新たな言語用のBroca中枢とWernicke中枢を形成しているということになります。これに倣うと、僕の徳島弁/関西弁脳は共通の言語中枢部内にあるが、北海道弁脳は少し離れた部分にあり、英語脳はかなり離れた、しかもきわめて限局した部分にあるということになります。

うーん、何年も使わないのにいきなり徳島弁を聞いても、ちゃんと理解できるだけでなく、正確な音/イントネーションの徳島弁を出力できるのです。これって、記憶の一番深いところと繋がった機能なのでしょうね。ということは、僕が脳卒中にでもなってretrograde amnesiaになったら、徳島弁でしか喋れなくなるのでしょうか。あるいは少しdementiaが混じってきて、最近の記憶が消失しやすくなると、徳島弁/関西弁しか喋れなくなるのでしょうか。

最近僕は、医局でちょくちょく関西弁が出ることがあるのですが、これってdementiaによる記憶障害の始まりなのでしょうか!? 徳島弁が出るようになったら、かなりの危険信号ということになりますね。徳島でうどんをすすりながら、ちょっと心配になったのでした。

以上、(毎度のことではありますが)臨床麻酔学会とは全然関係ない話に終始しました。

2010年11月2日火曜日

信州のほうに流れ星が落ちた

2010年の初期研修医のマッチング結果が出たようです(http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/hotnews/int/201011/517247.html)。都会の大学病院は充足率が高いようですが、地方国立大学は苦戦しているようです。それでも和○山医大や愛△大学のように、都会の大学に伍して頑張っているところがありますので、各大学の取り組みで挽回できる可能性もあるのだと思います。しかし解せないのは、僕の母校の京◆府▽大です。充足率100%なのですが、僕の卒業した24-5年前に比べて教育システムがよくなったとは聞かないのに、一体全体どうしたことでしょう。学部教育も卒後教育も、そもそも教育=放任という思想の大学だったように思います。学生/研修医は放牧しておくと勝手に野草を見つけて食べて、野原を走り回れる体力を持った医師に育つだろう、ってな大学だったのに...そんな大学に初期研修医が集まるのは、どうも解せません。

もしかしたら、京◆府▽大病院で研修したいというより、古い歴史があってまあ都会でもある京◆で暮らしたいけど、京◆大学は敷居が高いので、京◆府▽大にしとこうかという感じでしょうか。それって、大学受験の時の京◆府▽大の受験生の志望動機にそっくりな気がしますね。僕もそうでした。もしかしたら初期研修医のマッチングって、医学生の医学部再受験の疑似体験なのかも知れませんね。6年前の医学部受験で第一志望の大学だった病院を、初期研修のマッチングの第一志望にしている人って、結構いるのではないでしょうか。そう考えると地方大学や、旧帝大でも地方っぽい北●道大や東□大の充足率が低いのが、何となく納得できるような気がします。そもそも、医学部の再受験を疑似体験する気がない人は、初期研修に最初から市中病院を選ぶ傾向にあるのかも知れません。

初期研修はともかく、研究/教育機関に籍を置こうとする人は、後期研修先の大学をどこにするかが重要になります。都会で初期研修をしても、地方の母校に帰るというのは、選択肢の一つになると思うのですが、信州にはなかなか帰ってきてくれません。僕たちの努力が足りないのかも知れません。信州大学の卒後研修センター長のA教授とお話していて、信大卒業の初期研修医に「信州に帰って来ないか」メッセージを送ってみては、というアイデアが出ました。来年以降は、信大の全教授のサイン付きで、信州を離れた初期研修医たちに手紙を送ることになるかも知れません。

いずれの研究/教育機関にせよ、教室と個人が共通の目標を持ち、世界を目指しさえすれば、世界に伍していく研究/臨床ができます。だから僕は、東京や都会で初期研修をした信大出身や信州出身者は、ぜひ矢野顕子(宮沢和史作詞作曲)の「中央線」(http://www.youtube.com/watch?v=ZLuCtFmaqcg)に倣って、「信州のほうに流れ星が落ちた 中央(本)線に乗って 松本に帰っておいでよ」といいたいのですが...

これから少し寒くなりますが、清々しい季節です。信州大学病院から見える、常念岳をはじめとした北アルプスが雪化粧になりました。信大出身者、信州出身者は、ぜひ信州に帰っておいでよ。待っています。

2010年10月21日木曜日

San Diego 再び

アメリカ麻酔科学会(ASA)でSan Diegoに行ってきました。3年前、僕が信州に赴任する直前の2007年11月3日~7日に、Neuroscience MeetingでSan Diegoを訪れました。ですから丁度3年振りのSan Diegoということですね。この間の教室やわが身の変化を思い起こし、感慨深いものがありました。今回は教室の皆さんと一緒に、空港よりダウンタウン寄りのPacific HW沿いの長期滞在用のホテル(http://www.marriott.com/hotels/travel/sanph-residence-inn-san-diego-downtown/)をルームシェアして、自炊できて楽しかったです。

3年前のNeuroscienceの時には、湾の西側のヨットクラブ付近のホテル (http://book.bestwestern.com/bestwestern/propertyDining.do?propertyCode=05226&group=false&disablenav=false&hideProgressBar=false&photoCategory=DINE)に泊まりました。このホテルは10数年前の留学中、同僚の釣りキチの先生がホテル前から出る釣り舟に乗って新鮮な魚を持ち帰るのを、ご飯を炊いて待っていた思い出のホテルです。3年前に泊まった時には、昔近所にあったスーパーマーケットやチャイニーズレストランがすべて潰れていて、がっかりしました。

早朝、西に向かって、昔泊まったホテルの辺りまで、往復で15~6 km ジョギングをしました。San Diegoの湾岸のジョギングコースは高低差がなく、潮風が大変気持ちよいのです。3年前にも同じコースを、逆の東側に向かってジョギングしたのですが、その時、空港西の小さいモールに、タイレストランと日本レストランが"coming soon"だと書かれていたのが気になっておりました。今回、両レストランがちゃんと存在しているのを確認でき(http://www.spicesbaythai.com/)(http://sushiya-sd.com/ )、なぜかホッとしました。多分3年前に、新たに赴任する教室とこの2つのレストランとの開業とを重ね合わせて、心のどこかで気になっていたのだと思いますね。次回、San Diegoに来る時には必ず寄ってみようと思います。それまでは潰れずに頑張っていて欲しいと思います。

さて、この3年間に信州からのASAへの演題数は、2008年 3題、2009年 8題、2010年 12題と着実に増え、ポスター作成・発表技術も向上してきました。教室からの参加者も5名、11名、15名と増えました。日本ではO大学に次いでの演題数だそうで、O大学は信州の倍近くの医局員がいるので、演題の生産性としては僕たちの方が日本一かも知れませんね(!?)。まぁ、かなり取って付けた屁理屈ですが、ともあれ演題数を競うつもりはありません。この3年間、教室の皆さんには、たとえ日本に住む医師/研究者であっても、研究成果を英語で発表し続けなければならないという、僕たちの宿命を理解してもらうために、ASAに参加してもらったのです。それくらい信州が内向きになっていると思えたのです。

長野県で何か新しい医療を確立するためには、日本で評価されないといけない、日本で評価されるためには世界から評価されないといけない。つまり日本のどこにせよ、自分たちが正しいと思う医療/医学を、新たに確立するためには、世界中から認められなくてはならないという当たり前のことを、僕たちはしばしば忘れてしまいます。このことを忘れないために国際学会に行って、自分たちの研究に対する批判を英語で受け、討議を英語で行う必要があります。井戸の中の蛙として生きていくためには、井戸の外でりっぱな蛙として認めてもらうことが前提となります。そのために、国際学会での発表や英語論文の作成は不可欠です。

これまでの数年間は与えられたテーマでデータを取り、ASAで発表するだけで可としていましたが、これからは、(1) 自分のアイデアで臨床 & 基礎研究を行い発表していくこと、(2) 一人で2,3題の演題を出すことに躊躇しないこと、そして(3) 発表した内容を必ず論文化することです。(3) がもっとも重要で、論文化せずに数年経つと、発表内容の価値がどんどん低下してしまうことを肝に銘じておいてください。若い人たちの論文化については、勿論スタッフも手伝いますので頑張ってください。

それにしてもほとんどすべての領域のポスターセッションで、アジア人、特に日本人の若い発表者が目立ちました。つまり、世界の麻酔科学の研究の一翼を日本人(特に若者)が担っているということですね。そして演題数から考えると、今後、信州大の貢献も十分可能だということになります。新研修制度以来、低下しつつはあるものの、この研究意欲の高さが日本、そして信州大の麻酔科の財産です。これがなくなれば、世界の麻酔科領域における、日本(そして信州大)の存在意義がなくなるといっていいかも知れません。

このため今後、教室の皆さんにお願したいのは、研究意欲を高く保ちながら、論文化のための英文作成能力を高めるよう、毎日、少しの時間でいいので努力してもらうことです。地道な努力を数年続けると、海外での発表や英語論文作成能力が身についてくるはずです。とにかく日々継続することが重要です。騙されたと思ってやってみてください。先輩たちは皆、そうして成長してきたのですから。

来年のASAは10/14-19(Chicago)です。またルームシェアして過ごす予定ですので、いいデータを持って皆でChicagoに行きましょう!! そのために、帰国後すぐに来年に向けての新しいスタートを切りましょう。

2010年8月30日月曜日

麻酔/集中治療セミナー in 直島

O大学主催の初期研修医を対象としたセミナーで直島(http://www.naoshima-is.co.jp/)に行ってきました。このセミナーは4-5年前に始まり、年々参加者が増えて今年は日本全国から70名が集まったそうです。麻酔科を専攻する後期研修医は毎年400名程度なので、このセミナーに参加した人が全員麻酔科を専攻すれば、全国の麻酔科後期研修医の1/6-1/5が直島セミナー出身者ということになります。Z会の東大合格者の割合みたいだね。

2日にわたり、O大学のスタッフたちが、麻酔の歴史から脳蘇生、ICU管理、呼吸・循環生理、エコーガイド下神経ブロックなど、麻酔/集中治療のすべての分野の講義をしていました。スタッフの質の高さに驚きましたね。O大学の教室には、日本や世界的に名が通っている先生方が沢山いて、その伝統のせいか、若い先生方の講義のレベルの高さにも脱帽しました。

O大学のM教授は、崩壊の危機に瀕している麻酔科医療を立て直すには、大学が責任を持って若い麻酔科医を教育して、日本の麻酔科領域に秩序とモラルを取り戻す必要があると考えています。僕もこの意見に完全に同意します。そしてこのM教授をサポートして、O大学の実力派スタッフたちが、全国から集まった初期研修医たちに、ホスピタリティを持って接している姿は感動的ですらありました。

しかし、セミナー参加費1万円で直島観光ができるので応募した、なんて若者もおりました。O大学のスタッフたちが自分の時間を割いてくれている有難さを、君たちは理解しておるのか!!、それって人としてどうよ!! と思うこともありました。

最近の若者は、密に人間関係を積み上げたつもりでも、メール1本で入局を止めた、なんてことが起こります。せめて電話か直接会って相談してほしいと思うのですが、あまりに礼を失している若い医師が確かにいます。これって、単に僕が年寄り臭くなって、若者に対して説教臭くなっているだけではないと思うのです。

信州でも初期研修医向けのセミナーをしてみては、と言われました。でもやっぱりメール1本でサヨナラされた過去の体験から、二の足を踏んでしまいますね。歳をとると、一度若者から受けたトラウマから、なかなか回復できないものです。

但し、70名もの(一応は)麻酔科志望の初期研修医がいる現実に、少し勇気づけられて直島を後にしたのです。信州でも若い仲間が増えるといいなぁ。

2010年8月21日土曜日

風が乗越す 雲が乗越す 鳥が乗越す

毎年「一ノ沢ルート」ではつまらないので、今年は蝶ヶ岳→常念岳→常念小屋で、常念診療所(http://square.umin.ac.jp/jonen/)に行って参りました(下地図)。常念小屋は常念乗越(のっこし:標高の高い峠、尾根の鞍部)にあります。他の乗越としては、飛騨乗越、別山乗越、真砂乗越、室堂乗越などが有名です。常念小屋(http://www.mt-jonen.com/)の親方のYさんに教えてもらいましたが、常念乗越は文字通り、風が乗越し、雲が乗越し、鳥が乗越すところです。









確かに、2日目の早朝、穂高~槍ヶ岳に至る壮厳な風景を見ることができたのですが(下左図)、あれよあれよという間に常念乗越に風とガス(雲)が吹き上がり、僅か5-10分の間に眼前の槍ヶ岳は霧の中に消えて、ここが風と雲の通り道であることを実感しました(下右図)。





常念乗越に冬期設置した風力計は、風速60 m/sを振り切って壊れていたそうです。冬には人間がテントごと簡単に吹っ飛ばされる風が吹いているということですね。

この風に乗って渡り鳥も常念乗越を通るそうで、この鳥たちを狙って剣岳のオオワシ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%83%AF%E3%82%B7)もこの地にやってきます。渡り鳥は内部にいる仲間が風の抵抗を受けにくいように、三角形の連隊を組んで飛んでいます。しかし常念越えで体力を消耗して、三角形の底辺から後方に遅れる鳥を狙って、オオワシは高所から一気に急降下して捕まえるそうです。つまり、風の通り道である常念乗越は、剣/立山から出稼ぎに来たオオワシや、その帰りを待っている子供たちの生存にも重要な場所だということになりますね。
  
地殻の変動により地層の盛り上がりとして山々が誕生し、その山々の形状から風の通り道ができて、この道を通って雲や鳥が移動し、自然と生きものとの営みが密接に関連していることにちょっと感動しました。

今回、早朝以外に槍ヶ岳をちゃんと見ることができませんでしたが、下山中に子供連れの2組の雷鳥たちに出会いました。そういえば、せっかく3000 m級の高地に逃げ住んだくせに、飛べなくなったために、ワシやタカの天敵の目を逃れて、ハイマツの中に隠遁している雷鳥も不思議な生きものですね。

いずれにしても、今回の山行を契機として、今後、原則日帰り(せいぜい1泊)を旨とする山行をしていく予定ですので、麻酔科山部の方々(それって誰だ?)も是非、時間を作って参加してくださいね。よく学び、よく遊びましょう。
【記録】
  • 三俣→(4時間)→蝶ケ岳ヒュッテ→(4時間半)→常念岳→(1時間)→常念小屋/診療所(1泊)

  • 常念小屋→(1時間)→前常念→(3時間半)→三俣

2010年8月9日月曜日

上高地(松本)→ボナールの白猫(東京)→教授就任パーティ(名古屋)

前週末、まず金曜日は上高地でのH薬大の卒論旅行に参加し1泊してきました。信州大学から上高地まで1時間少々で、上高地も松本市です。このH薬大のlabはオピオイド研究で有名で、今後、共同研究を模索しているのですが、なんとこのlabには教官に加え、22、23歳の若い男女を中心とした学生・大学院生、総勢約50名が所属しているのです。女性が多いにもかかわらず体育会系に鍛えられていて、礼儀作法がとてもしっかりしています。夜遅くまでの勉強会では、皆さん積極的に発言しよく勉強しており、びっくりしました。現代っ子をどのように教育したらこうなるのでしょうか。ともあれ、最初の数年間の教育が最重要だと思いました。

翌早朝、清々しい上高地を後にして、O製薬の輸液研究会で東京に向かいました。研究会前の時間を利用して国立新美術館(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E6%96%B0%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8)のオルセー美術館展(http://www.nact.jp/exhibition_special/2010/orsay/index.html)に行ってきました。見学者に溢れ入館まで30分かかり、駆け足見学となりました。とはいえ、今回はボナールの「白い猫」とヴァロットンの「ボールで遊ぶ子供」だけが目的だったので、目的は達成できました。僕は学生時代、なんと美術部にも所属していたのですが(!?)、絵を平面的にしか描けないせいか(!?)、平面的ながらも静かな動きがあるボナールの絵が好きでした。その代表が(僕的には)白い猫ですね。ボナールはやらしい系の絵も多いと思うのですが、むしろ静物や猫が好きです。うーん、この絵は背伸びしている猫を、感じるままに投影して描いたような雰囲気が好きです。研究会はともかく(!?)、蒸し暑い東京に出て行ったかいがあったというものです。

翌日曜日は、A医大麻酔科のF新教授就任パーティのため、名古屋へと移動しました。A医大には教室員3名を研修させてもらいましたし、先代教授のK先生は尊敬する麻酔科医の一人なので出席したのです。さて、世間的には教授になるっておめでたいことなのですね、皆さん、「就任、おめでとう!」と言うのですから。もっともその後で、手術件数を増やせ、事故するな、研究せよ、教育せよ、日本一の病院にせよ、といろいろな注文がついましたがね。僕にはこちらで就任パーティがなかったので、誰からもおめでとうとは言われなかったかわりに、教室運営についての注文もありませんでした。ってことは、今後、自分の好きにしていいんだと勝手に解釈していますが...いかがなものでしょう...。
 ともあれ、こうして週末はあっという間に(いつものように)消えていきました。うーん、これが教授の仕事というのではちょっと納得いかないので、この夏からちょっと動物実験を再開したいと思っています。大学院生の諸君、ぜひぜひ手伝って下さいね。

2010年7月19日月曜日

淡路島で考えたこと

旭○医大I教授のスガマデクス講演会の後、最終電車で大阪まで行って1泊して、翌朝、新大阪→舞子→明石大橋→淡路島に行き、整形外科領域のシンポジウムに参加してきました(http://www.sgop.edisc.jp/)(http://www.sgop.edisc.jp/program8.pdf)。淡路島は昔の鄙びた港 & 海水浴場のイメージでなく、いつも間にか高級リゾート地(http://www.westin-awaji.com/)になっていてびっくりしました。淡路島まで乗った高速バスが知り合いの会社のバスで(http://www.honshi-bus.co.jp/)、これまたびっくり、世の中狭いね。

鎮痛薬の創薬のシンポジウムで、他のシンポジストたちは大学発の創薬のための新たなセンター化構想などについて発表していました。一方僕は、なぜ鎮痛薬の治験がうまくいかないのかを、臨床の立場からお話しました。この10-20年、痛みの基礎研究は大変進歩して、痛みに関与している分子が沢山見つかったのに、臨床応用できた鎮痛法・薬はほとんどありません。新しい鎮痛薬の開発のためには、①臨床に即した動物モデルを用いること、②痛みの行動薬理だけでなく、ネズミの内なる声を聞くためにはin vivo電気生理(電気薬理?)をいろいろな部位(脊髄、脳幹他)で行うこと、③治験の前にヒトボランティアを用いた前臨床研究が重要と、僕はこれまで一貫して主張してきました。まぁ誰も聞いてくれなかったし、これからも聞いてくれないでしょうがね。

鎮痛薬が対象としているのは症状(symptom)の改善です。他方、抗腫瘍薬や降圧剤など、他の薬剤が対象としているのは所見(sign)の改善です。創薬を目指す製薬会社の研究者も、案外このあたりを混同する傾向にあり、これが鎮痛薬の治験失敗の遠因だと思います。そしてこの混同の原因を探っていくと、最終的にはcureとcareの混同に行きあたると僕は睨んでいます。勿論、僕たち医療側だってcureとcareを混同しており、care=「短時間のcure」X長期間 と考えている節があります。だからこそ週1回の神経ブロックを10年以上続けたりするのだと思います。

そして何より患者さん自身がcareとcureを混同しており、careを評価せず是非ともcureされたいと思っているのです。だからこそ、「治らないけど、一緒に頑張っていきましょう」と言うと烈火の如く怒り出す患者さんがいて、「治らない」はペインクリニックでは禁句なのです。癌の患者さんに治らないといっても(多分)問題にならないだろうに、「痛みが取れない(かも知れない)」と伝えると烈火の如く怒りだすというのは、いかにも不自然です。こうしたペインクリニック患者さんの特性についても、いろいろ考えるところはあるのですが、今回は触れません。

ところでsymptomを全く伴わないsignというものは存在せず、だからこそ「緩和」という思想が出てくるのですから、cureというのは不老不死と同様の幻想の一部に過ぎないはずです。ということは結局、疼痛研究において、患者さんが求める実現困難な願望(cure)を目的とした基礎的研究は、潜在的に臨床応用への成功確率がきわめて低い仕事ということにならざるを得ません。だからこそ、Ph.D.が「臨床に役立つ研究」と言えば言うほど、僕は胡散臭い目で見てしまうのです。単に科研費取って生活安定させたいだけじゃないの、なんてね。勿論、僕がひねくれているのだけかも知れませんがね...。

でもさぁ、基礎科学者として後世に名を残したいなら、神岡Nucleon Decay Experimetまでいかなくとも、「臨床医学」なんて小さい実学の世界にわざわざ参入しないで、人類の好奇心にドーンと迫るテーマを、思う存分追っかけてもいいのではないでしょうか...。大きなテーマであれば、多少国税を注いでもいいと思うし、その方がむしろ思いがけず臨床応用できるネタが見つかるかも知れないと思うのです。

いずれにしても臨床医は、Ph.D.の言う「臨床に役立つ(かも知れない)」という言葉を鵜呑みにしないで、基礎系論文を批判的に読み込む能力が必要です。信州で大学院生に基礎研究してもらっているのもこのためです。決して「基礎研究者モドキ」になってもらうためではありません。そういえば大昔、マグマ大使に出てきた「人間モドキ」という存在は(今の若者には古いか?)、光線が当るとドロドロに溶けて消えてしまいましたが、「臨床に役立つ(かも知れない)基礎研究モドキ」も、臨床という強い光を当てるとドロドロに溶けて、何も残らないかも知れませんね。そう考えると、ちょっと虚しい作業かも知れません。

2010年7月13日火曜日

高山は近い!

医局旅行に行ってきました。昨年は三重の賢島に行き、知り合いの先生の別荘にお邪魔して、クルーザーに乗せてもらいました。医局旅行は1年毎に海⇔山に行くことにしたので、今年は高山になりました。松本から安房トンネルを抜けて、最初に新穂高ロープーウェイ(http://www.okuhi.jp/Rop/FRTop.html)に乗って西穂高口まで行きました。あいにくの曇りで焼岳しか見えず、穂高は全然見えませんでした。

30年前、学生時代に先輩と2人で秋の笠ヶ岳(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E3%83%B6%E5%B2%B3)を目指したのですが、大雪のために稜線でビバークして、翌日雪崩で遭難しかかりながら、ほうほうのていで新穂高温泉に生還したことを思い出しました。あの時の思い出のせいか、岐阜側から見る穂高にはあまりいい印象がありません。確かに岐阜側から見る笠ヶ岳(下写真左)は、松本から見る常念岳(下写真右)に似た上品なたたずまいで美しいのですが、槍・穂高に関しては上高地側から見た方が圧倒的に素晴らしいと思います。この点については、信州>>岐阜です。

その後、新穂高ロープーウェイで降りて、高山に向かいました。高山は松本の古い町並みに似た町でしたが、その観光地魂にびっくりしましたね。町の隅々まで「どんな人でもWelcomeする心」が詰まっています。30年前はここまで徹底していなかったように思います。サービスが京都ほどあざとくなく、心温かいもてなしです。これは町を上げて徹底していないとできないはずです。翌朝白川郷に行きましたが、少し霧に囲まれた風景は僕が生まれた四国徳島の山の中を彷彿とさせ、しみじみとした懐かしさを感じました。これが関が原の合戦後の、日本の原風景なのだと思いました。明治以降の日本が、近代化により得たものと無くしたもの、などということを柄にもなく考えさせられましたね。

医局旅行は最近の若者には不評だそうです。友達同士ならともかく、職場を同じくするだけの関係で、一緒に旅行するなんてもってのほか、ということなのでしょうね。しかし職場で1日の大半を一緒に過ごしている上司・同僚と、1年に1回くらい同じ風景を見て同じものを食べ、何かを感じるという、共通の体験があってもいいように思います。両者の理解が深まるからね。若い頃はこうした集団行事に積極的でなかった僕が、今ではこのように思うのですから、今の若者も年を取るに従い、医局旅行(に類するもの?)に行きたいと思うはずです。

しかし何より、松本→高山は1.5時間くらいでとても近いので、ちょっとびっくりでした。これなら午前中に往復できるくらいですね。ともあれ来年の医局旅行は海に行きます。やっぱり時には新鮮な魚も食べたいからね。

2010年7月5日月曜日

この季節の京都

ペインクリニック学会があったので、「この季節の京都」に行って参りました。この季節の京都(つまり梅雨の京都ですね)は、地球上でもっとも過ごしにくい場所の一つなので(!?)、最後まで松本を離れたくありませんでした。タイムリミットの夕方6時過ぎに京都入りすべくギリギリに移動したのですが、京都に着いたとたんに梅雨特有の小雨が降ってきました。この梅雨京都の歓迎を受け、会長招宴に出る気力がなくなってしまいました。京都で暮らしていた頃は、この季節になるとパンに緑色のカビが生え、取り忘れてた洗濯物には赤、黄、緑 他の7色カビが生えました。それに比べて、信州松本の梅雨は北海道に似てドライで暮らしよいのです。引っ越して以来、夜は窓を少し開けるだけでそよそよと風が入るので、今のところまだクーラーは不要です。

松本の過ごし易さは、湿度が京都に比べて低いからだと思っていたのですが、昨年6月の松本気温(平均20℃、最高26.9℃、最低14.5℃)、湿度(平均64%、最低20%)に比べ、京都の気温(平均23.5℃、最高28.9℃、最低19.2℃)、湿度(平均60%、最低19%)で、松本の方が平均気温は3.5℃低いだけで、相対湿度は変わりません(http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php)。ではどうして松本の方がドライに感じるのでしょうか。もし松本の相対湿度が海面気圧としての値だとしたら、実際の松本の気圧(940 hPa)は京都(1010 hPa)より70-80 hPa低いので、水蒸気圧が下がって表示より実際の相対湿度が低いせいかと思うのですが、誰か気候に詳しい人、正解を教えてくれませんか。

京都の耐え難い湿気とは裏腹に、シンポジウムには沢山の人が来てくれて、面白いシンポジウムだったと言ってくれる人も多く、それなりに評価してもらえてホッとしています。麻酔科で基礎研究をしている人達は臨床への気配りが必要だし、臨床をしている人は基礎研究を臨床応用するために、基礎研究をちゃんと読みこなす力も必要だと思います。こうした集まりをきっかけとして、麻酔科領域における基礎的研究と臨床的研究の融合が始まればいいと思っています。

シンポジウム前日には、シンポジストや疼痛機序研究グループの人達、そして京〇府△大麻酔科の新教授S先生を始めとする、学会主催の人達とお話できて楽しかったです。また懇親会をサボって(坂〇先生、杉△先生、懇親会に出なくてすまん)、学生時代に住んでいた修学院~一乗寺を散歩できたし、昔よく通った定食屋にも行けました。また最終日には大学時代の悪友達と痛飲できたので、充実した3日間ではありました。それでもやっぱりこの季節の京都には、行きたくありません。京都の人間でないのに、何が悲しゅうて「この季節」の京都にいなくはならないのか。

次に京都である学会は、是非とも春か秋に開催して欲しいと切に願います。

2010年6月29日火曜日

生きることと死ぬこと

昨日の朝カンファレンスの最後に、杉△先生が僕が信州麻酔科HPに書いた文章を引用して、麻酔科学は「ヒトが生きているとはどういうことか」を主題としてきたので、終末期医療のことはあまり考えてこなかったかも知れない、という発言で締めくくりました。うーん、僕がHPで言いたかったことを、少し補足させてもらいたいと思います。

昔ICUで働いていた頃、「どうしてヒトは亡くなるのか」という疑問を持ちました。ここでいう「亡くなる」という意味は、Multiple organ failure (MOF)で死ぬということですね。広範心筋梗塞や間質性肺炎末期などの、単一臓器の完全な機能停止を死因とするのではなく、外傷/手術/敗血症などによって、心/肺/腎/肝/免疫など、各臓器自体の障害は致命的でないのに、トータルのMOFとして死に至ることが理解できなかったのです。

これは学生時代から、循環、呼吸、消化、神経、免疫...と人間の体を臓器別に学んできたことに一因があるかも知れません。医学生にとって、単一臓器の病気が病気のすべてです。だから敗血症を起因として心機能が落ちたり(続発性心筋症)、呼吸不全になったり(ARDS)、腎機能障害が起きるという、MOFの意味するものがまったく理解できませんでした。各臓器/システムのネットワークという概念は、学生時代には誰にも教えられなかったし、サイトカインストームなどという言葉もなかったしね。しかし鈍感な僕でも、やがて老衰による死が緩やかなMOFによる死だと気づきました。つまりMOFは、加齢死の一般的な原因なのですね(http://jama.ama-assn.org/cgi/content/full/289/18/2387)。

ということは、加齢死とICUにおけるMOF死の間に、何らかの共通項があると考えてもいいかも知れません。例えば、寿命に関係あるTarget of rapamycin (mTOR)が(http://www.nature.com/nature/journal/v464/n7288/full/nature08981.html)、全身性炎症反応にも関係あるとしたら(http://www.jbc.org/content/278/46/45117.long)、mTORはsepsis によるMOFと、老衰によるMOFの共通経路の一つなのかも知れません。これは数多く思いつくであろう仮説の一例に過ぎません。

要するに僕がHPで言いたかったのは、麻酔科学の主題である「ヒトが生きているとはどういうことか」は、同時にその裏の命題である、「ヒトはなぜ(MOFで)死ぬのか」と同義だということです。基礎研究者は試験管内の細胞死を研究し、麻酔科医はICUでSIRSやMOF の瀕死の患者を診ることで、生物が生きることと死ぬことの両方の意味を探ろうとしているはずです。この分野における基礎研究を臨床に応用するとは、単細胞動物の細胞死と、多細胞動物の分化した多臓器の機能不全(MOF)との関係性を探ることなのだと思います。多細胞動物であるヒトの複雑系からのアプローチ(つまり、麻酔科医側からのアプローチですね)の、ゴールへの道程はとても遠いのですが、発見に満ちたやりがいがある分野だとHPでは言いたかったのです。

以上が昨日の朝、杉△先生のカンファレンス内容とは無関係に、僕が補足したかったことでした。カンファレンスで喋ると時間を取ってひんしゅくだったでしょうから、ここに書かせてもらいました。

2010年6月22日火曜日

San Diego に行こう

アメリカ麻酔科学会(ASA)に教室で12演題採用されたので、期間中は手術室を閉めて、皆でSan Diegoに行こうと思います。2-3ベッドルームの滞在型ホテルを借りて、レンタカー & ルームシェアしようと考えています。Sea Worldの方になら、いくらでも長期滞在型のホテルはあるでしょうしね。杉△君、宜しくね。

ASAの採用演題数を競うのは意味がありません。しかし麻酔科のleading meetingなので、後期研修2-3年目までには是非とも1度、自分の演題をASAで発表してもらいたいと思っています。所詮、アメリカ人にとっては、国内の麻酔学会総会に過ぎないのですから、そんなに身構える必要はありません。ASAの会場で、できれば日本だけでなく、外国の人たちとも知り合いになって欲しいですね。そして今年は、自分の発表だけでなく、事前にRefresher CourseやWorkshopに登録して、ちゃんと勉強しましょう。

ところで田▲(さ)先生、ASAに備えて、一昨年同様、英会話学校に頼んで出張でプレゼンテーションの練習をやりませんか? 初期研修医に加わってもらってもいいと思います。いずれにしても、またまたSan Diego Zoohttp://www.sandiegozoo.org/)のパンダと、Sea World(http://www.seaworld.com/)のシャチを観に行くことになりそうですね。San Diegoは湾沿いのジョッギングコースは最高だし、日本/中華/タイ料理屋も多いし、大好きなBruegger's beagle屋さんもあるし(http://www.brueggers.com/)、何よりHorton plazaは最高ですね(http://westfield.com/hortonplaza/)。またここのフードコートで照り焼き風焼きそば食べるんだろうなぁ。

とはいえ、せっかくなので、Salk Institute(http://www.salk.edu/)は無理でも、せめてUCSD(http://www.ucsd.edu/)の誰かのlab.を見学させてもらい、ついでにトラベルマグでも買ってきますかねえ。

行くぞ、San Diego!!

2010年6月20日日曜日

信州麻酔科セミナー

5-6月に信州に来て講義/講演(信州麻酔科セミナー)していただいたのは、

(1) 東○大学大△病院 小◆先生 「Future tend of fluid management with HES in Japan」
(2) 高△大学 横■先生 「麻酔と免疫・予後」
(3) 国立○循■センター 吉◇先生 「心臓血管麻酔」
(4) 信△大学整●外科 加◆先生 「上肢絞扼性神経障害の病態と治療」
(5) 福■大学 重○先生 「循環生理について」
(6) 星□科大学 成○先生 「オピオイドの統合的分子理解」
(7) 国立○循■センター 大▼先生 「心臓血管麻酔におけるオピオイドの使用」

でした。毎週のように講義/講演を聞くことができましたね。

アメリカ留学中、Miller RD、Egar EI II、Todd MMなどが、朝6:30頃からのYale大学麻酔科のモーニングカンファレンスで講演するのを聞く機会がありました。彼らは東海岸、中西部、西海岸のそれぞれの大学を、お互いに行ったり来たりしていました。こうしたビッグネームの麻酔科医たちが、隔週くらいに来学していましたね。アメリカは広いので移動が大変だったと思うのですが、教育のためなら喜んで出かけているようでしたね。Refresher course的な内容だけでなく、さりげなく最新のデータ(最近、自分の施設からAnesthesiologyに載った論文など)も紹介していました。

また比較的若い基礎系研究者が、しばしば基礎labにミニレクチャー等で来学していましたが、その発表内容が1-2週後のNature、Science、Neuronなどに載ることが多かったですね。多分、top journalに掲載許可が出ると、その研究内容を講演してもらおうと、各labのPIが呼んでいたのだと思います。基礎研究者にとっても、top journalに載った研究をもとに大きなgrantを取るためには、全国行脚して各地の研究者と討議することがとても重要なのだと思いました。

臨床/基礎の研究者が40-50名の聴衆相手に、論文を読むだけではわからない本質的な部分を、直接話すのは、演者と聴衆の両者にとって大変有意義だと思います。今回、信州までわざわざ来てくれて講義/講演してくれた先生方の話を聞きながら、彼らの講演を遠隔(テレビ)カンファレンスでルーチンにできないものかと思いましたね。時々、製薬会社がテレビカンファレンスをやっていますが、あれを大学主導で、もう少し学問的にやれないかと思ったのです。移動の手間が省けるし、講演料も考えなくていいだろうしね。

こうしたカンファレンスが日常的になると、新しい発見をした研究者は、自分の研究内容を広く知ってもらい易くなるし、聴衆は最新の知識をすばやく臨床に応用する機会が増えるしね。うーん、他大学の先生に声をかけて、文部省科研か厚労科研として応募してみますかね。

2010年6月6日日曜日

第57回麻酔科学会終了!

第57回日本麻酔科学会(福岡、長大 澄川先生会長)が終了しました。今回の麻酔科学会は、AACA(アジア・オーストラレーシア麻酔科学会)との合同開催だったので、アジアからの麻酔科医たちが目立った学会でしたね。少しお話した限りでは、アジア各国、麻酔の臨床にはあまり大きな違いがないように思いました。但し、前回に書いたように、中国と韓国の若者の研究への高まりを感じました。

さて教室からは、僕や川○先生の司会/講演に加えて、田◇(さ)先生が招請講演し、菱△先生がシンポジウムで発表し、坂□先生はワークショップでインストラクターをして、吉●先生、平◆先生、石■先生、今▼先生たちが一般演題で発表しました。田◇(さ)先生の招請講演を含め、皆さん、りっぱに発表していたようですし、質疑応答もよかったと思います。僕が聞けなかった人の発表も他大学の人から褒められたので、大変誇らしく思いました。よかった、よかった。

ともあれ、「発表」って大事でしょ。研究内容を世に知らしめるのは、コツコツ研究するに匹敵するくらい重要な事項と思います。自分の研究のロードマップを持っていないと、人を引きつける魅力的な発表はできません。若いうちにいろいろ勉強し経験を積むのは、やがて一生のロードマップ(ライフワーク)を見つけるためにあるのだと思います。ということで、学会発表を仕事の一区切りにするようにスケジュールを調整すべきだと思います。そして、学会では他施設の人たちと知り合うことも重要です。新たなアイデアが得られるからね。

次のステップとして、学会で発表した内容を論文化すべく、皆さん頑張って欲しいと思います。論文掲載までの道のりは、学会発表の10倍以上険しい山道ですが、その分足腰が鍛えられて、医者としても人間としても成長するはずです。僕も皆さんに刺激されて、遅れている原稿や論文のreviseに励もうと思います。

そして、今回一緒に学会に参加してくれた初期研修医のうち何人かが、来春、仲間になってくれたらいいなと思います。そのためには、麻酔科での教育体制をもっともっと強固なものにしなくてはならないと思います。

次の大事な学会はアメリカ麻酔科学会(ASA)ですね。今年のASAは沢山の教室員とともに、ホテルの部屋をshareしレンタカーで移動して、アメリカ生活を楽しみ、かつ学会で勉強してこようと思っています。英語での発表が、教室にとって実り多いものになればと願っています。

2010年6月2日水曜日

福岡は暑い アジアはもっと暑い

第57回日本麻酔科学会で福岡に来ています。朝、軽くジョギングしたのですが、福岡は蒸し暑くて汗ダラダラになりました。

ようやくスライドをほぼ仕上げ、夜には招待されていたAACA(アジア・オーストラレーシア麻酔科学会)関連のパーティに出ました。フィリピン、ニュージーランド、マレーシアの麻酔科医たちを同じテーブルで接待し、他にも中国、韓国の人たちと話をしました。皆さん英語が上手で、特に中国の若い人たちが積極的でしたね。国の勢いというのは、結局、個々人の積極性を反映しているのだと妙に納得しました。このままだと10年以内に、日本は経済だけでなく、医学の分野で確実に中国に追いつかれると思いましたね。

ではどうしたらいいのか。こうした状況に陥った原因を考えると、やっぱり「ゆとり教育」に行き着くと思います。この点では国立□研究センター理事長の嘉○孝▲先生に完全に同意します。ですから「反ゆとり教育」しか、建て直す方法はないと思います。つまり若いうちに臨床・研究を叩き込み、英語論文の作成能力と、国際学会のシンポジウムや講演を英語でしっかりできる人材を育成する以外に、日本の麻酔科学が生き残る道はないと思うのです。

日本の麻酔科学は、1950年の日米連合医学教育者協議会(Joint Meeting ofAmerican and Japanese Medical Educators、東京開催)を起点とします。 この協議会は、第二次世界大戦前後に、旧態依然としたドイツ医学に依存してしまい、世界の潮流から取り残されてしまった日本の状態を建て直すため、米国からの一方的、強制的通達で行われました。当時の日本全国の医学部の外科教授たちは、米国からこの協議会に出席することを強要されました。そしてアメリカにおける麻酔科学の圧倒的な進歩を目の当たりにして、東大をはじめ日本の大学指導者は衝撃を受けたのです。こうして、麻酔科の設置が本邦における外科学の発展のために急務であることが広く認識されたのです。信州大学でもこの後、この時来日していたアメリカのDr. Sakladのもとに清○誠▲先生が留学し、帰国後、麻酔科初代教授として麻酔診療がスタートしたのです。

それから50年経ち、2000年に入って日本の麻酔科学はAnesthesiolgoy誌への投稿数でもアメリカに次ぐ勢力になったにもかかわらず、最近の5年間で大きく低迷するようになりました。つまり、まさに初期研修制度や麻酔科医のフリーランス化と時期が一致して、日本の麻酔科学の停滞が始まったのです。僕の前任地でもこの5年で大学院に進む人が減り、夜や土日に研究したり勉強する人が激減しました。今の若者麻酔科医と話をしていても、新たな学問分野を切り拓こうという人や、新たな技術革新を起こそうというような発想を持った人が少ないような気がします。

50年以上前の日米連合医学教育者協議会の時点に立ち戻り、今一度、日本の麻酔科学を立て直すべき時期にきたのだと思います。そのために、信州の麻酔科の貢献も必要だと思います。AACA関連のパーティで、中国の若者と話ししながら、「精一杯サポートするので、信州の若者よ、土日を潰してでも、日本麻酔科学が世界をリードできるように頑張ってくれい」と、心から願ったのでした。

2010年5月31日月曜日

Just moved !!

ようやく引っ越しました、パチパチパチ。

これまでの僕の全人生での引っ越しは、徳島→西宮→宝塚→京都→(市内で2回)→近江八幡(滋賀)→札幌→旭川→(市内で1回)→札幌→釧路→札幌→アメリカNew Haven→(市内で2回)→札幌→松本(沢村)→松本(蟻ヶ崎)→松本中央で、計20回となりました。すごいね。2-3年に1回は引っ越している計算になります。だからお金が貯まらないんだね。

因みに大学卒業後、勤務先は、京△府□大脳外→松▲記○病院麻酔(研修)→与◇野●病院外科(研修)→近□八△病院脳外→札○医◆麻酔→旭●赤□字病院麻酔→市△旭■病院麻酔→札○医◆ICU→市△釧■病院麻酔→札○医◆麻酔→東▲幌病院麻酔→北○道■体△自◇児センター麻酔→アメリカYl大学麻酔(研究lab.)→五◆橋病院麻酔(1ヶ月の所属のみ)→札○医◆麻酔→信○大学麻酔で、延べ16施設で、1.5年毎に勤務先がかわっている計算になります。さすがにもう現職を最後にしたいのですが...。 

引っ越しや異動は、新しい土地や仕事に慣れるという点からはstressfulではありましたが、見聞が広がるという点からはとても有意義でした。一か所に留まっては見えないものが、移動することにより確実に見えるようになります。信州に来て少し驚いたのは、勤務先を移動したがらない若い人が案外多いことでした。僕は脳外科医時代に、たまたま麻酔科を研修した先の部長に勧められて、縁もゆかりもない札○医大に行きました。当時は、何も考えていなかったですね。その部長を敬愛していたので、言われるままに動いただけです。そして北海道に移った後は、自ら希望して一番忙しいとされていた病院を、1-2年毎に転々としました。

若いうちにいろんな病院や施設で勤務/研修し、さまざまな先輩/同僚と(他大学医局の人達とも)一緒に仕事をすることが大事だと思います。多様な価値観に出会えるからね。そして、若いうちにちゃんとした(?)反面教師に出会うのも、将来、若い人を指導する際にとても重要です。それに、若い頃に尊敬していた先生がいつの間にか尊敬できなくなくなったり、若い時にはどうしようもない反面教師と思っていた人が、こちらが年取るとともに案外味がある人だと思うようになったりと...いろいろだと思います。

若いうちはあまり考え過ぎず、与えられた環境の中でベストを尽くせば道は切り開けると思います。僕自身はこれまで前任地で人事案をすべて受け入れて1-2年で異動してきましたが、結果的プラスになりました。元ボスはいろいろ考えてくれていたんだと、ようやく今になってわかるようになりました。

麻酔科人事をスムーズにするための勝手な理屈だとは思わないでくださいね。1-2年の期限で異動するのは、仕事/論文をまとめたり、自分の将来の方向性を考えるのに有意義だと思います。山本夏彦も「世は締め切り」と言っているではありませんか(http://www.amazon.co.jp/世は〆切-山本-夏彦/dp/4163511202/ref=sr_1_25?ie=UTF8&s=books&qid=1275283768&sr=1-25)。仕事を「締め切って」区切りをつけて次に進まないと、生産性が落ちるということですね。まあしかし生産性を上げるために、僕のように20回の引っ越し、16回の勤務異動ということになれば、それはそれで問題かも知れませんが...。

ともあれ引っ越し先の2階からは、晴れた日に(小さいながらも)常念岳と槍ヶ岳のピークが見えて、心が落ち着きます。もうしばらくして一段落したら、医局の方々をお招きしてBBQでもしようと思っています。その節は遊びに来て下さいな。以上、まずは引っ越しの報告でした。

2010年5月19日水曜日

ネズミの顔色を伺う

たまには最近読んだ論文について...

CLP (cecal ligation and puncture)という敗血症性腹膜炎のネズミモデルがあります。ネズミの盲腸を結紮/穿刺して腹膜炎を作る実験モデルです。昔、この実験を手伝っていた頃、絞扼性イレウスの臨時手術の依頼がきて、患者さんに会いに行ってびっくりしました。患者さんの顔色の悪さ、表情、肩で息している姿が、CLPモデルラットそっくりだったのです。患者さんをネズミとそっくりだなんて叱られるかも知れませんが、病室に入った瞬間、CLPネズミの姿と患者さんの表情が完全にオーバーラップしたのだから仕方ありません。痛みの研究に転じた後も、ペインクリニック外来を受診する慢性疼痛の患者さんが、神経障害性疼痛モデルのネズミとよく似た表情、雰囲気をかもし出していると思っていました。慢性痛の基礎研究と臨床の両方をやっている人は、きっと了解してくれると思います。

ですから、ネズミも痛み特有の表情をするというタイトルを見つけた時、ちょっとうれしいのと同時に、「やられたっ!!」という思いもありました(http://www.nature.com/nmeth/journal/vaop/ncurrent/abs/nmeth.1455.html)。痛いとネズミは目を細めたり、鼻や頬っぺたを膨らませたり、耳や髭を後ろに倒したりするそうですが、確かにネズミはこんな表情をすることがありますね。遺伝子いじった難しい分子生物学的なアプローチや、高度な技術を要する電気生理学的アプローチだけでなく、こうした直接的な観察研究の中にも、科学の本質はあるのかも知れません。京大霊長研の人達が、アフリカでボノボの性行動を双眼鏡で観察しているみたいにね...

ヒトでは表情筋や声帯筋が高度に発達したので、他の動物にはない笑いや怒りの表情や、言語を獲得したと言われています。でもチンパンジーが笑うのはすでにCharles Darwinが130年前にパント・コールとして報告していますし、霊長類に文法構成能力があることも証明されています。またチンパンジーでなくとも、飼い犬が何となく笑っているように見えることも、飼い主が発する言葉を理解していると思えることもありますね。ネズミもじっとみているとそれぞれに個性があって、何となく立ち振る舞いや表情が違います(http://www.amazon.co.jp/ラット一家と暮らしてみたら―ネズミたちの育児風景-服部-ゆう子/dp/4000024183)。

そもそも形質が違う他種生物を見ると、僕たちはまずはどこが彼/彼女の「顔」なのか探そうとしますね。ヒトの表情筋に進化した「原基筋群」の変化を見ることで、その生物の感覚/情動を読み解こうとしているのかも知れません。ネズミ脳はヒトと類似の情動変化をきたすので(http://www.nature.com/news/2010/100519/pdf/465282a.pdf)、痛い時の情動変化は、表情筋の原基となったネズミ顔面筋にも変化を与えるということですね。同種にせよ他種にせよ、出会った相手の生物がこちらに対して怒っていると、我が身に危険が迫り生存確率が減るので、生き延びるためには他生物の「顔色を伺う」ことが重要なはずです。あるいは自分が外敵に噛まれて、痛みで苦悶様の表情をすれば、仲間に危険を知らしめ、仲間の生存確率を増やす利点があるはずです。

さらに進化の過程で、ヒトは「表情や行動」を過剰に演技/演出すると、食物・仲間の獲得や生殖上、有利に働くことに気付くようになったのかも知れません。ヤ○ザは恐い顔で周囲を威嚇して欲しいものを手に入れようとするし、僕たちは地下鉄に乗ってきたヤ○ザが怒った顔をしていると、素早く隣の車両に移って生存確率(?)を高めようとするだろうしね。うーん、「演技や演劇の進化論的メカニズム」なんて論文がNatureに掲載される日も、そう遠くないように思いますね。

ところで昔、朝カンファレンス時に、元ボスの教授のその日機嫌がいいかどうか、表情をそれとなく伺っていました。あれって教室におけるわが身の生存確率を高めるための、本能的行動だったのでしょうか。現教室の人たちも、朝、僕の表情を窺っているのかしらと、ちょっと心配になりました。

2010年5月17日月曜日

アルペンルート

リタイア爺さんのように、バスツアーで信州側から黒部立山アルペンルートに行ってきました。平均年齢67 ± 11歳という感じのツアーでした。私ともう一人以外は、ほぼ全員がリタイア組でしたね。仕事が溜ってて、アルペンルートに行ってる場合か!!  という内なる声はあったのですが、あまりに山と無縁の生活でちょっと煮詰まっていたので、開き直って行ってきましたが、とても良かったです。

黒部ダムは過去、2-3回通ったはずですが、今回もその壮大さに感動しました。快晴で見晴らし抜群で、白馬の雄大さにも感動しましたね。そして数人の重装備の登山客とすれ違った際に、学生時代に黒部ダムから黒部の源流を遡行したことをいきなり思い出しました。当時、私たち○△大学山岳部員は、黒部ダムにいた観光客たちを、「けっ、一般人がチャラチャラするんじゃねーよ」的な眼光ビームで睨んでいたように思います。久しぶりの大きな沢登りで緊張していたのと、基本的に世の中一般に対してトガッた若者ばかりであったためと思いますね。今から考えると、当時の私たちの信条は、「若者らしく、清く正しく屈折する」だったのだと思います。

そのせいか、約30年を経て「一般人」側に自分がいるのが、ちょっと不思議な感覚でした。○△大学山岳部の先輩だったN先生が、今でも自分の子供よりも若いような山岳部員と、気分的に張り合っている理由が少しわかりました。当時の自分の若さ/青さに対する憧憬と恥ずかしさと、現在接している学生諸君の若さに対する応援と嫉妬が入り混じった奇妙な感覚なんですね。なるほど、なるほど。

ともあれその後、ケーブルカー、ロープーウェイ、トロリーバスを乗り継いで着いた室堂で、雷鳥沢に向かって少し下って、剣岳と早月尾根を一部見ることができました。やはり剣岳は素晴らしい!! 年寄りになって足腰立たなくなる前に、一般道でいいので剣岳に登っておかねばなりません。今年、四半世紀振りに槍ヶ岳には登るので、ついでに剣岳も制覇しておこうかしら。剣岳だけなら、1泊2日で行けそうだし...富山側からしか黒部へは行ったことがなかったので、こんなに松本が黒部まで近いとは知りませんでした。

ということで、今年の医局旅行は黒部→剣沢小屋でしょうかねえ、医局長さん。

2010年5月13日木曜日

世の中まだまだ捨てたもんじゃない

京○府△大麻酔科の教授にS先生が就任されました。S先生は僕の1年先輩で、23年前、僕が脳外科医として出張した滋賀の病院に麻酔科医として赴任されており、しばしばお互いの不遇な人生を嘆きあったのでした。飄々とした、とても頭が切れる人でした。僕が麻酔科に転じた理由の一つは、S先生のように生きたいと思ったからでした。

僕が北海道に移ってから10年後に、アメリカでS先生と再会しました。当時、S先生はUCSFで肺障害の研究をされていて、私が痛み研究のlab.を見学に行った際に、S先生のlab.を訪れる機会があったのです。Nat Medに論文を載せられた直後で、UCSFの麻酔科lab.のPI直前のポジションに就いておられました。その姿は10年前の滋賀での病院とまったく同じで、飄々としながらアメリカのpostdoc達に的確に指示を出しながら、僕を案内する姿が印象的でした。きっとS先生はアメリカでPIになると確信して、先生のlab.を後にしたのです。

しかし僕が帰国後しばらくして、S先生も帰国して京都の市中病院で働いているという風の便りが流れてきたのです。そして再々会して、この間の事情を聞く機会がありました。S先生の場合、最初に出会った頃から、その考え方や行動が首尾一貫しており、まったくブレないのです。不実なものは不実と見極める眼力と、不実を潔しとしない人生を生きてこられたと思います。帰国に至る事情もS先生らしくすがすがしいものでした。そしてアメリカでのacademic positionを捨てた後、京都の市中病院の麻酔科 & 手術室運営に熱弁を振るう姿をみて、やはりこの人には叶わないと思ったのでした。

今回、京○府△大麻酔科教授選に応募し、再度、academic positionへの復帰を目指していると聞き、ひそかに応援しておりました。しかし昨今の麻酔科を取り巻く環境の中では、S先生のような学究肌の人はむしろ疎まれる可能性が高く、たとえ京○府△大の同門であっても外部候補扱いでしょうから、どうなるか心配しておりました。

しかし京○府△大の教授会はぎりぎり(?)ちゃんとしているじゃないか。今回だけは母校の教授会を見直しました、偉いぞ! 世の中まだまだ捨てたもんじゃないね。どうか教室の皆さんも地道な努力を続けてください、きっとお天道様は見ているはずです。これからは、京○府△大と信州とでよりよき関係を築き、共同研究ができればと思います。とにかくよかった、今日は信州松本で、一人で勝手に祝杯を上げようと思います。

2010年4月25日日曜日

谢谢 神経男/女

第14回日本神○麻▲集□治療研究会が終了しました。教室の皆さんは会の運営で大変だったでしょうし、大学で待機して手術室を守ってくれた人も御苦労さまでした。若い教室の人が一所懸命やっていて、活気があって気持ちのいい会だったと、何人ものおやぢ麻酔科医に褒められました。教室の皆さんの働きに感謝するとともに、皆さんのことを誇りに思います。教室からの発表も堂々としていてよかったと思います。御苦労さまでした。

麻酔科で神経に興味がある神経男/女の先生方が、信州松本に結集して1.5日間、いろいろと討議できて有意義でした。全国の若い人たちがいい発表をしていたので、初期研修制度以降、研究する人たちが減ったといわれていますが、この分野にはまだまだ若者の参入があると心強く思いました。

シンポジウムの内容もよくまとまっていたし、脳外科の本郷教授と臓器発生制御の新藤先生の特別講演も、大変興味深かったです。他施設の先生も感心していました。ともあれ、明日から日常に戻りますが、会をきっかけに日常の臨床麻酔を深めたり、新たな研究活動が生まれるといいなと思います。まずは無事終わってよかったです。

2010年4月22日木曜日

研究会前夜

明日から1.5日間で、第14回日本神○麻▲集□治療研究会というのを信州松本で開催します。医局員に○、▲、□を埋めなさいといっても、正答率は50%を切ると思うね。まあコアなメンバーばかりの小さな研究会です。でも1年で一番の楽しみにしているメンバーもいるので、楽しい研究会になればと思います。

研究に流行は要らない、地道かつ本質的な研究だけでいいと思っていました。しかし多くの人々が共通の考え方や手法を使って同時代的に研究をすると(これを流行というのですね)、一気にbreak throughする場合があることを知りました。もちろん、業界あげて大きく間違った道に迷い込むこともあるのだけどね。

同じように、学会で経験と知識がある人々が一同に会して討議していると、全員が新たなものの見方に気付く瞬間があります。他人に自分の考えている内容を説明しているうちに、相手と自分とがほぼ同時に同じ考えに到達することがあるじゃないですか、あれと似た現象だと思います。もしかしたら、ヒトのニューロン同士は有線だけではなく、無線でも呼応できるのかも知れません。ニューロンの発火があまりに高周波だと、ある人の脳を超えて空気中に伝播して、他人の脳のニューロンを発火させたり...なんてね。ともかく学会や研究会を開いて、知識/経験ある人々の脳に、同時に同場所で同一問題について考えてもらうことは、とても意義深いことなのです。

昔、夜自宅に帰る途中、近所の公園に猫が沢山集まっている場面に出くわしました。ちょっと不気味でしたが、皆じーっとしていて仲よさそうな雰囲気でした。今から思うと、あれって猫たちの研究会だったのかも知れません。真剣に最近の人間界と猫界の情勢について討議していたのかも知れませんね。ということで明日から2日間、松本で神経好きな麻酔科猫たちの研究会を開きますので、のぞきに来てください。北杜夫も学んだ旧制松本高校跡での研究会なので、公園の散り桜を見がてら来て下さいな。お待ちしています。

2010年4月19日月曜日

車は急に止まれない

先週末、麻酔科学会の命を受け、神戸でBLS/ACLSの講習を受けてきました。前日、大学の新入1年生の合宿研修会に顔を出さねばならなかったので、夜10時過ぎに車で松本から中津川まで行って1泊して、翌朝神戸に着きました。神戸では朝8時から夕方まで、かなりタイトなスケジュールで2日間にわたり実習・講義を受け、何とか試験に合格してAHA BLS/ACLSプロバイダーコースを終了しました。やれやれ。

今回、BLS/ACLSのトレーニングを受けるのはそれなりに大事だと思ったね。5年くらい前に一度受けたのですが、その時は何となく反発を感じました。AHAか何か知らんが、アメリカの学会なんかにかぶれないで、心停止の状況に応じ現場の裁量に任せた方がいいんじゃないかと思っていました。でも不思議に今回は、ACLSを積極的に受け入れる自分がいたのですね。

200 km/hrの速度で車を運転して急ブレーキをかけると何が起こるか、日本の教習所では教えません。でもアメリカでは教えるところがあるらしいですね。勿論アメリカには教習所がないので、そうした疑似体験をさせる指導教官もいるという程度かも知れません。ともあれ、高スピードの車に急ブレーキをかけると、車体が横ブレした後回転し、回転軸の接線方向に滑って吹っ飛んでいくことを体験して、初めて同じ状況で生き延びるための対策を体で学ぼえようと思うはずです。同じように、蘇生という一刻を争う特殊な現場では、じっくりと考えていたのでは判断ミスすることを講習会で疑似体験し、パターン認識こそ蘇生の王道であることを教え込むのが、ACLSプロバイダーコースだということですね。

サルは医療行為をしません、せいぜい仲間の傷口を舐めるくらいでしょう。ということは医療行為は高度に発達したヒトの脳が行う作業です(当り前か)。しかし一刻を争う状況においては、脳に判断させないで「反射」に頼ったパターン認識こそがもっとも信頼できる反応ということになるかも知れません。脳というシステムは、時間が限られた状況ではしばしば判断ミスをするからね。ですからVFを見たら直ちに胸骨圧迫すべく体が動くように、古典的条件付けするのが今回のわれわれの目的だったという訳です。つまりACLSにおいて「パブロフの犬」になることができれば、コース終了&インストラクターへの道ということになります。なるほど、なるほど、妙に納得できました。5年前はあんなに反発したのに、evidence-based medicineという、これまた西洋由来の考え方が体に染みついたせいか(身に染みつかされたせいか?)、今回は「パブロフの犬」になるのに抵抗がなかったということですね。

でもさぁ、受講者は僕を含めて、結構年齢層が高かったので、年のせいかなかなか「パブロフの犬」にもなれないんだよね。つまり、餌が出てきても涎が流れず、おしっこをちびってしまったりする感じです。年を取ると条件反射も身につきにくいのかも知れません。ということで、特に医局の年配の皆さん、ACLSは早めに受講しておいた方がいいようですぜ。

2010年3月22日月曜日

サルに戻る

新しくできたボルダリングパークに行ってきました(http://www.edgeandsofa.jp/)。僕が学生時代の終わり頃にフリークライミングをする人が増えてきました。彼らは重いザックを担がない代りに、ハーケンやボルトがすでに打たれたルートを回避して、自然のままの岩を登ろうとする一群でした。そして僕が6年生の頃、山で比較的小さい岩にザイルなしでしがみついている人がいるのを見て吃驚しました、あれがボルダリングする人を見た最初でした。

登山における滑降部分がスキーになったように、岩場の登攀だけを切り取ってスポーツにしたのがボルタリングですね。ともあれボルダリングパークの、初心者コース5-6ルートは簡単で、1-2回ずつ登り切りました。そして次のレベルのコースにトライしたのですが、これがなかなか難しく、最後の最後に失敗してしまうのでした、よくできているね。オーバーハングを乗り越えようとすると、どうしても最後に握力・腕力がなくなるようにできていましたね。

ところで今はオーバーハングなんて言わないんだろうね、140度の強傾斜とかいうのかしら。僕の頃はオーバーハングは、「あんなにハングってると、ちょっと厳しい」というような言い方をしました。そしてハングっているところにはアブミが必須でしたが、今ではアブミ(http://www.jalps.net/cgi-bin/yougosyu/dic.cgi?mode=read&head=a)なんて使わないのでしょうね。僕の20 kg台の握力が限界になったので、初めてのボルダリングは2時間で終了となりました。これからは上級者コースを目指して、土日に1回くらい来たいと思いました。松本にはインドアでトップロープクライミングができるところはなさそうなので、当分はここで鍛えようと思います。

山靴でロッククライミングしていた世代としては、ボルダリングに若干の違和感もありますが、それでも登り切った時の達成感・満足感は素晴らしいですね。でもどうしてヒトは壁を登って嬉しいんでしょうか。もしかしたら「サルに戻れるから」かも知れませんね。ボルダリングパークで壁に取りついた人達は、まるでジャングルの木に登るサル達のようです。高い所に登って嬉しいのは、ジャングルの木に登って外敵からの危険が去った時の安心感を疑似体験しているからかも知れません。つまりボルダリングはサルの頃の感覚に戻り、「外敵から逃れた」という仮想体験が得られるため、日々の仕事で外敵(?)との闘いに疲れた、現代人のストレス発散にはもってこいのスポーツかも知れません。

ということで、今年の目標は屋内ボルタリングでの上達と、常念岳周辺の沢登りに決定しました。おやぢ達で穂高~槍ヶ岳の縦走をすることは決まっているので、今年こそはようやく山生活の再スタート年になりそうです。麻酔科内にも山岳部、あるいは沢登り同好会を持ちたいのですが、こちらは成就まではまだまだ時間がかかりそうです。誰か山岳部員が麻酔科に入局してくれたらいいのですが...

6日間で2,196 km(パート2)

ICU学会2日目には日韓ICU学会(http://icm2010.umin.jp/ksccmjsicm/)の司会をさせてもらいましたが、韓国の若いICU医の活発さに感動しました。まさに僕が○▲大学ICUで働いていた頃の熱気に似たものを感じました。若者の一所懸命さというのはいいものです。APRVはIRVと同じように多分消えていくかも、などと僕のようなおやぢのつぶやきに負けないで、頑張って欲しいと思いましたね。若者の一所懸命さ以外にbreak throughを起こす原動力はないからです。

僕だって若い頃はICUで身を立てようと思っていたのです。ある日元ボスに呼ばれて、これからはpainの研究/臨床にシフトしなさいと言われたのです。最初は嫌でしたね、何より人の命を救いたくて麻酔科医になったのに、何が悲しゅうて痛みなんか研究しなくてはならないかと思いました。しかし教室の方針としてpainの研究をやる人が必要なのだから仕方ないと、それなりに一所懸命励んだつもりです。今、信大麻酔科のlab.の設備が整いつつありますが、僕が研究を開始した当時の○▲大学麻酔科にはtail flick testの機械(ネズミの尻尾に熱を当てるもの)しかありませんでした。学内走り回って他部門の機械を借りたり、自腹を切って機械を買ったりしてしのぎ、留学からの帰国後40歳近くでようやく助手(助教)にしてもらえたので、科研費が申請できるようになりました。

しかし今振り返ると、資金や機器が乏しかった時の方が楽しかったね。論文を真剣に読んで計測系を想像しながら、国内外のlab.を見学に行って、少しずつ自腹や科研費で実験系を作って、初めて記録が取れた時の喜びは得難いものでした。研究は臨床の仕事が終わった夜中や土日曜日にするしかなかったけど、まったく意に介さなかったしね。帰国後、初めて生きたネズミの脊髄からきれいな細胞外記録が拾えたのも真夜中でしたし、in vivo patch-clamp記録が初めてできたのも5月のゴールデンウイークの最終日夜だったし、生まれたてネズミの脊髄in vivo patch-clamp記録ができたのも日曜深夜でした。「やったー!」と喜んで後ろを振り返っても教室には誰もいなかったけど、臨床の教室で研究するということは(多分)永久にそういうもので、最後は孤独感との闘いなのだと思いましたね。それでも研究を通して自己満足と知的興奮が得られました。これは、単独行で未踏峰のピークを踏むのに似た感覚ではないかと思います、未踏峰を踏んだことはないけど...

話が脱線しました。現在の韓国の麻酔科医 & ICU医は、忙しく苦しくfrustratedな毎日だと思いますが、それでもまさに黎明期として、楽しく興奮した日々なのではないかと想像します。設備がないのは不幸ではないのです、目指す目標や(知的)興奮がないのが不幸なのです。そして今の若い医師に目標(方向)を示してあげるのが、われわれおやぢの役目だと思います。

ICU学会2日目の夜に東京に移動して、昨年に引き続きJB-POT用の講習会に(http://www.jb-pot.com/workshop/index.html)1日だけ参加しました。昨年と同様、ここでの若者の熱気には驚かされました。しかし韓国ICU医の熱気とは根本的に違う熱気で、駿台夏期講習に近い熱気だと思いました。つまり未知の分野を切り拓こうとしている熱気ではなく、出題範囲と回答がある世界で、要領よく受験テクニックを学ぼうという熱気ですね。そして僕自身は決して予備校講師にはなれないなぁと思った次第です。

とはいえ現在の「専門医志向」という、要領よさを目指した風潮の中で、来春から信州麻酔科の大学院生が5名になるというので、まだまだ信州の若者は捨てたものではないと心強く思います。そして指導側がしっかりと若者の期待に答えていかねばならないと、帰りの「あずさ」の中で強く感じたのでした。こうして、松本→(232 km)岐阜→(232 km)松本→(686 km)広島→(818 km)東京→(228 km)松本 計2,196 km(6日間)の移動が終わました。さすがにちょっと疲れましたね。

2010年3月18日木曜日

6日間で2,196 km(パート1)

D教授の最終講義を聞いた後、夜遅く松本に帰りました。名古屋から8時を過ぎると特急電車はないので、あらかじめ中津川まで車で行き、帰りは名古屋→(電車 ホームライナー)→中津川→(中央自動車道)→松本で、計約3時間半でした。この交通手段は、関西方面に出張して、その日のうちに帰る時に有効ですが疲れるね。

翌日、大学院生の面接した後、今度は松本→広島に移動しました。広島では17年振りにICU学会(http://icm2010.umin.jp/)に出席して、特別講演や教育講演をじっくりと聞きました。IRVがAPRVという名前に変わったくらいで、僕がICUにいた頃に比べて格段の進歩はないかも(失礼!)と、思いましたね。それでも久しぶりのICU学会で、旧友に再会したような懐かしさと楽しさがありました。

10年以上振りに旧友に会うと、当時の自分ってどんなだっけと、当時の自分のキャラクターを思い出そうとする過程で、いろいろな記憶が突然堰を切ったように思いだされてくることがありますよね。あんな感じでした。当時働いていた○▲大学のICUや■△病院のICUでの出来事がいきなり思い出されたのです。CHF(continuous hemofiltration)の回路がはじけて頭から血液を大量に浴びたことや、経腸栄養で多量の排便が出て夜通し清拭し続けたこと、腹臥位人工呼吸にして多量の排痰にびっくしりたことなどなど。当時、僕のいた○▲大学ICUは、他大学と競ってこうした新しいICU管理法を打ち出していたのですが、今それらが一般的なICU管理法に定着しているのですね。当時としては、結構革新的なことをしていたICUだったのです。そしてそんなICUで一所懸命仕事していた昔の自分をちょっと誇らしく思いましたね、えっへん(年取ってきたなぁ)。

2010年3月17日水曜日

「筋を通した先生」の最終講義を聞く

少し前ですが、○▲大学のD教授の最終講義に行ってまいりました。D教授には直接指導されたことはないのですが、心の恩師です。D教授の学問的業績は、第2世代麻酔科医の中で突出しています。ここで簡単に麻酔科医の世代について説明しておくと、第1世代麻酔科医とは、外科学教室出身で麻酔科学を専攻して、1960~70年代前半に麻酔科医としてスタートされた方達ですね。スタートとほぼ同時に教授になった方も多いのです(30代で教授になったのね)。そして第2世代とは1970年代半ばころに、第1世代教授が主宰する麻酔学教室に入局して麻酔科医としてスタートして、1980年代半ば~1990年前半に教授になった人達ですね。そして1980年半ば~1990年前半に、第2世代の教授のもとで麻酔科医になったのが第3世代ということになります。そしてここ7-8年前からボチボチと第3世代麻酔科医の教授が誕生し始めています。僕は第3世代の中では中堅~やや年寄りといったところでしょうか。

D教授の話に戻ります。D教授の最終講義を聞きながら、僕は20年前のことを思い出していました。1990年8月、麻酔科医になってまだ3年目の僕は、市中病院の元上司の勧めで、北海道から実家への帰省途中、教授になって間がないD先生のもとを訪れたのです。D先生は初対面の僕に多くの時間を割いてくれて、麻酔科学の面白さを熱く語ってくれました。元上司は、僕をD先生の教室に入局するように勧めてくれたのですが、残念ながらいくつかの理由でそれは叶いませんでした。しかしその後、学会などでD先生は、僕に親しく声をかけてくれるようになりました。不思議なことに、研究の方向性や身の振り方などで悩んでいる時、D先生との会話で自分の気持ちが楽になるのでした。D先生は数多くの麻酔科領域での重要な論文を書いているので、「頭脳の人」と思われがちなのですが、根っこは「情の人」なんだと思います。僕の気持ちを推し量り、声をかけてくれていたんだと思います。

D先生は僕の教授選考講演会の前日、僕が泊まっているホテルに電話をくれて、講演会に臨む心構えについても教えてくれました。つまり正々堂々と自分の考えを述べて、選ばれても選ばれなくともその結果を受け入れ、前向きに生きなさいということでした。これで僕は落ち着きましたね。自分がどういう教室を作りたいのか、どんな麻酔科医を育てたいのかしっかりと述べて、もし僕の考えを受け入れてくれるのならその任を全うしよう。そして選任されなければ市中病院に就職するつもりだったので、その場合は市中病院でちゃんとした後輩を育てようと思いました。たとえ大学にポジションがなくとも、僕をこれまで育ててくれた先輩達のように、僕も市中病院で後輩の将来の可能性を伸ばしてあげればいいのだと思いました。

D先生の最終講義を聞きながら、やっぱりD先生は「卑怯」に逃げないで、筋を通して学問、教育、臨床を貫き通した方だと思いました。そして僕自身は人格、学問ともにD先生の足元にも及びませんが、それでもD教授のように筋を通す麻酔科医をこの地で育てていきたいと思ったのです。そして後輩麻酔科医には、学問業績に加えて、何より本当の「情の人」に育って欲しいと思いましたね。見かけの「情の人」は、自分の利益を考えて他人に優しい振りをしているだけの人ですが、本当の「情の人」は、自分の利益を考えない滅私の人だと思うからです。

20年前、僕はD先生の教室に入局することは叶いませんでしたが、それでもD先生が心の恩師になりました。人生とは多くの人との出会いの積み重ねなんですね。だからこそ若者はあちこち出かけて行って、多くの先輩や同年代の麻酔科医/研究者と出会い、先輩から教えを受け、同輩と切磋琢磨し成長していって欲しいと願う訳です。

しかし将来、D先生のようなちゃんとした最終講義できるかしら、ちょっと心配にもなりました。

2010年2月23日火曜日

信州酒蔵ツアー 再び

昨年に引き続き、今年も「信州酒蔵ツアー」に行ってまいりました。何と今年は、総勢30名以上に膨れ上がり、バスも例年のマイクロバスから大型バスへと変更になりました。

まずは伊那のみはらしファームでおそば(http://www.j-sanchoku.net/index.php?f=&ci=12479&i=13088)を食した後、前々学長宅にお邪魔して、奥様が作られたハーブ茶、燻製、お漬物を食して(食してばかりですが)、いよいよ宮島酒店(http://www.miyajima.net/)に到着しました。若社長の案内のもと、麹作りから、酵母菌によるアルコール発酵過程を見学しました。さすがに僕も3回目なので、ようやくお酒の製造過程を少し理解できるようになりました。

麹カビは要するにアミラーゼを産生して、お米のデンプンをブドウ糖にするためのものです。このお米に麹カビがまとわりついたものを麹と呼び、ここまでの過程で甘酒ができます。よって甘酒にはアルコールが含まれていません。次いで麹に酵母菌を加えて、嫌気下でブドウ糖(C6H12O6)→2エチルアルコール(C2H5OH)、2CO2、2ATPとなります。これってレーニンジャーやハーパー生化学の導入部で、学生の試験にすら出ない基本中の基本でした。ピルビン酸がTCAサイクルに入れば36ATPが産生するのでしたね。僕は生化学の教授に好かれて(!?)、計3回試験を受けてようやく通ったので、今でもよく覚えています。

その後、寒い酒蔵を離れて試飲会場へと移りました。酒造り行程を正しく理解するためには、にごり酒から大吟醸まで、しっかりと試飲するのが一番です(!?)。試飲が進むにつれ、酒造り行程はどうでもよくなり、ほどよく大脳皮質が抑制された状態でしゃぶしゃぶ屋さんに移動して試飲を続け、しんしんと夜は更けていいくにつれ、海馬の抑制も始まったのでした。

今年は若社長の感動的なお話はなく、比較的あっさりとした酒蔵ツアーでした。しかし最後の宴会に若社長も参加してくれて、多くの人達と交歓できました。来年は大型バス2台になるかも知れません。いろいろと勉強になるので、もっと沢山の教室の方の参加を期待しています。

2010年2月15日月曜日

-1℃→0℃→11℃(パート2)

日本橋までジョギングした後、みぞれ混じりの東京を発って、昼過ぎに気温11℃の快晴の高知に着きました。高知大学のY教授と一緒でした。昨日の松本―1℃、今朝の東京0℃から、いきなり11℃の世界です。うーん、日本は長い!! 

その後、Y先生に連れられ、まずは桂浜(http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/39/katsurahama.html)に行きました。僕は徳島で7歳まで過ごし、その後も10歳くらいまでの夏休みは、高知の室戸岬寄りの日和佐という町で、数週間家族で過ごすのを常としていました。そのせいか、同じく太平洋に面している桂浜は、少年時代に過ごした海と、同じ匂い同じ風景でしたね。

次に案内してもらった高知城(http://www.kochipark.jp/kochijyo/)は山城で、下から見上げるととても威風堂々と見えました。松本城と同じく、残存天守閣のあるお城の一つで、城好きには垂涎の城のようです。山内一豊の築城から、明治に至るまで代々山内家が高知を治めたようです。松本が改易などにより、藩主が何度も交代したのと対照的かも知れませんね。

高知城を見た後、ひろめ市場(http://www.hirome.co.jp/hpgen/HPB/entries/5.html)に行きましたが、市場で昼間から地元女性がお酒を飲んでいるのをみて、びっくりしました。高知では普通のことのようです。大らかな県民性ということですね。Y先生と私も少しチューハイを飲んで(ほんの少しです)、セミナーに向かいました。

セミナーでは痛みのお話をさせていただいたのですが、麻酔科に加え、基礎の先生や整形外科の先生にも沢山お越しいただき、うれしく思いました。高知の麻酔科は若い人が多く、今後楽しみな教室ですね。海の高知と山の信州で、今後、協力しながらいろいろとやっていこうと盛り上がりました。会の後は桂浜の旅館に泊めていただき、海の幸をご馳走になり、翌朝、40年以上振りに波の音を聞きながら目覚めたのでした。そして太平洋の夜明けの中、桂浜をジョギングをしながら、一面の水平線を見ました。これまた、10数年にカリフォルニアのモントレー/カーメルの砂浜から太平洋の水平線を見た時以来でしたね。モントレーから眺めた太平洋を、日本の高知側(?)から眺めているというのも、不思議な感覚でしたね。

さて、昼前に松本に帰ってきたのですが、飛行機からは、白山、富士山、仙丈、甲斐駒、穂高、槍、常念、鹿島槍、白馬までの大パノラマが、くっきりと見えました。この風景を見るためだけにも、福岡⇔信州松本の航空路は残すべきだと思います。飛行機から見ると、白山山系から南・北アルプスは地層が大きく盛り上がっており、特にFossa Magnaはやはり異常な地溝帯だと思いましたね。そしてそのFossa Magnaの麓の松本に帰ってきて、ホッとしたのですが、これもまた不思議な感覚でした。地層のうねりの大本のFossa Manaの麓に帰ってきてホッとするというのは、どういうことでしょうか。

今回、松本→東京→高知→松本と移動して、異なった気候・風土・風景から、いろいろと不思議な感覚を持ちました。海と山はやっぱり違うと思います。今後、追々検討していきたいと思いますね。

さて再度、信州大学麻酔科では秘書さん(非常勤事務員)を募集しています(http://wwwhp.md.shinshu-u.ac.jp/staff/004/)。医局員/教室員の方のご友人、ご親戚で適任の方がいらっしゃれば、応募してくださいな。宜しくお願いします。

-1℃→0℃→11℃(パート1)

先週末、気温-1℃の松本を発ち、車で上田、新幹線で東京出て、学会事務局で雑務をこなした後、お茶の水のホテルで1泊しました。翌朝6時から、気温0℃でみぞれ混じりの雨の中、凍えながらも医科歯科大の前から本郷→秋葉原→日本橋をジョギングしてホテルに帰りました。1時間程度だったので、10 kmの距離だと思います。朝6時の秋葉原はもの悲しかったですね、通り魔殺人のあった辺りを一部走りましたが、街全体が虚構って感じでした。早朝にジョギングすると、街の性格がわかる気がするね。昔いた札幌では、早朝のススキのには、やるせなさしかありませんでした。

日本橋は早朝にもかかわらず、かつて日本の中心だったという風格を感じましたね。日本橋に店を持つのは商売人の夢のはずですが、信州代表として八十二銀行も鍋林(最近、僕はここの関連会社に家を建ててもらっているのでヨイショしておきます)もちゃんと日本橋にお店がありました。江戸時代から、甲州街道は日本橋を起点として、新宿を経て信州下諏訪まで続いているのですから、信州の企業が日本橋に支店を出しているのはまぁ当然なのですが、何かちょっとホッとしましたね。僕もだんだん信州贔屓になってきました。

それでもいつも思うのですが、東京は狭いね。本郷から日本橋三越前まで、3 kmくらいしかありません。毎年、麹町のホテルに泊まると、国会議事堂から霞ヶ関、東京駅、九段下を経て、皇居をぐるっとジョギングで走るのですが、大体1時間くらいなので10 kmくらいです。これに銀座~日本橋~本郷までを入れた円を描くと、高々半径3 kmの範囲内に、日本の政治、行政、司法、商売、学問の中枢がすべて入ってしまうことになります。これって本当にいいのでしょうか。直下型の地震がきたらどうするんだろう。そもそも東大から中央官庁に入省する人達は、通学/通勤する場所が3 km南側にずれるだけだよね。これではやはり、世間知らずな官僚が増産されるだけだよね。

ただ東京のいいところは、みぞれ混じりの小雨の中、半袖半ズボンの姿でジョギングしていても誰も気に留めないことです。手の感覚が無くなりながらも、来々週の東京マラソンに出場するために練習しているふりをして、通行人の好奇の目もなくホテルまで無事に帰ってくることができました。この季節、松本市街を半袖半ズボンで走っていると、道行く人の驚愕の目に晒されるだろうね。顔も結構割れているので、翌日には教室の誰かに、どうかそんなことをしないでくれと言われるかも知れません。丁度、信州に赴任直後、学食で夕ご飯を食べているのが学生の話題になって、やんわりと教室の人に注意されたようにね。

ところで、信州大学麻酔科では秘書さん(非常勤事務員)を募集しています(http://wwwhp.md.shinshu-u.ac.jp/staff/004/)。医局員/教室員の方のご友人、ご親戚によい方がいらっしゃれば、応募してくださいな。宜しくお願いします。

2010年1月28日木曜日

松本から東京は遠いのか近いのか

先週○曜日、午後3時過ぎから松本→上田(三才山トンネル経由)→(新幹線)で東京に出て、午後6時からの小さい研究会に出席しました。

会はT大学名誉教授のH先生を長として、多施設で集積した臨床データを8-9名の委員で討議しているもので、今回は8月の国際学会に出す抄録を作成しました。会の後はいつものように「なだ万」の上品なお弁当をいただいてから、午後8時過ぎに会場を後にして、東京→(新幹線)→上田を経て、車で三才山トンネルを通って、午後11時前に信州大学に帰ってきました。一昨年から、こんなことをもう10回くらい繰り返しているのですが、いつも不思議な感じがします。ついさっきまで東京の中心の帝国ホテルで「なだ万」のお弁当を食べていたのに、今、信州大学の医局でコンピュータに向かって仕事している自分がいるからです。

信州松本から東京まで、中央線の「特急あずさ」に乗っても、車で上田に出て新幹線に乗っても、大体2時間半かかります。そして面白いことに、松本から車で中央自動車道を走っても、やはり2時間半程度で新宿に着いてしまいます。これは昔留学していた、アメリカのコネチカット州のニューヘブン(人口10万人程度の小都市)(http://en.wikipedia.org/wiki/New_Haven,_Connecticut)からニューヨークまでの道のりに似ています。ニューヘブンからニューヨークまでは、Metro-Northという電車を使っても、車で高速95号線を走ってもほぼ同じく2時間程度かかりました。

しかしアメリカと日本では、この距離の捉え方が大きく違うように思います。アメリカ人はニューヘブンとニューヨークをあまり離れているとは考えていないようで、ニューヨーク郊外にニューヘブンがあるという認識に近かったように思います。実際、ニューヘブンよりも少しニューヨークに近い、コネチカット州のスタンフォードやグリニッチからはマンハッタンに通勤している人は多かったしね。一方、日本人(特に松本人)は東京⇔松本はとても遠いと考えているように思います。これは鹿児島⇔東京の飛行時間が1時間55分のように、日本ではどんなに離れた地方からでも、東京へは2-3時間で着くことができるからかも知れません。つまり距離的にはずっと遠い町から東京までの所要時間が、松本から東京までの所要時間とあまり変わらないので、松本はついつい不便な場所にあると考えるのかも知れませんね。

ところで、ニューヨークから2時間以上離れているニューヘブンは、学問するのに不利な土地だったかというと、当然そんなことはないのですね。ニューヘブンにあるイエール大学(http://www.yale.edu/)は、(僕が留学していたlab.はともかく)田舎にあるにもかかわらず、ハーバード大学やMITに次ぐ大学だと思います。そして、ボストンという都会にあるハーバード大学が、MGHやBWHなどの巨大な関連病院を誇るのとは違って、イエール大学のニューヘブンホスピタルは地味な地域の病院で、イエール大学自体はむしろ基礎的な研究できらりと光っていたように思います。イエール大学の偉いところは、大学病院をMGHみたいな巨大病院にしなかったことで、多分、自分たちの役目をしっかりと自覚していたのですね。

僕も東京から離れた信州松本で臨床 & 学問することを、決して不利だとは思っていません。流行に流されず、臨床を志向したきらりと光る基礎的研究を地道にやっていけば、世界に伍することができるはずです。人にはそれぞれ役目があるのです、それを間違っちゃいけない。東京にある巨大な大学病院群とは違って、信州大学の役目は、流行に左右されない地道な臨床 & 研究だと思うのです。東京で一見華々しく臨床医をやるのも、信州で地道に臨床 & 研究するのも、社会からの求められ度に差はないのです。要はちゃんと役目を果たすかどうかに尽きますね。

以上、帝国ホテルから新幹線を経由して、暗い山道を車で信州大学まで帰ってくる道すがら考えたことでした。

2010年1月17日日曜日

電信柱にしみついた夜

年末に京都御池で、そして先週末は東京神楽坂で、お酒を飲む機会がありました。前者は大学時代の同級生達との忘年会で、後者は新宿にある2つの大学麻酔科のO先生とU先生との会合でした。O先生の計らいで、東京でも京都っぽい所ということで神楽坂が選ばれたようで、料理も加賀料理+シャンパンという洒落たものでした。確かに神楽坂の一角は昔ながらの風情を残していて、好きなエリアなのですが、「ほらほら、東京にだってこんな処も残っているでしょ」という、計算されて仕組まれた空間に感じてしまうのですね。これって僕がひねくれているからかも知れません。でもちょっと遠くを眺めると、新宿の高層ビル街が見えるのですから、昔ながらの風情っていわれてもなぁ... 素直に頷けない所以です。

そもそも新宿区には、慶応、女子医、東京医と3つの大学病院がほぼ半径500 m~1 km以内にあるのですね。これ以外にも国際医療センター、社保中央、東京厚生年金などの大病院があって、東に1-2 km行くと、日大駿河台、順天堂、医科歯科、東大、東京逓信、三井記念と目白押しです。ということは、信州と東京とでは、大学医学部・病院の概念や役目が違うということですね。したがって、医師/研究者の目標も異なるはずです。(多分)都会では流行を追い続けていないと、取り残される不安があると思います。でも一体、何から取り残されるのでしょうか。田舎のslow lifeに染まるのがベストではないのですが、都会にいると却って見えない本質もあるように思います。いずれにせよ、夜の12時に新宿にいる人達だけで、信州松本の人口をはるかに超えているのでしょうから、僕から見るととんでもない世界です。

宿泊した新宿の高層ホテルからの外の眺めは、もうブレードランナーの「強力わかもと」のネオン都市そのものです。新宿は進化し過ぎた人類の脳が作り出した人工世界なのでしょうが、阪神大震災を知る者としては、こうした人工的な構造物が恒久的に存続するとはどうしても思えないのです。そして何より、自然から離れて人工都市に閉じ込められると、自分が動物であることを忘れて、脳がヴァーチャル世界に向かって走り出しそうな不安を感じますね。

一方、年末の京都では、昔住んでいた修学院~一乗寺あたりをブラブラしたのですが、昔ながらの学生街で20年前とあまり変わっていませんでした。一乗寺といえば、宮本武蔵が吉岡道場一門70名と決闘して、一門の嫡子4歳を切り捨てたという「一乗寺下り松」の辺りで、昔は山の中だったはずです。もっともこれは吉川英治の小説での話で史実ではないそうで、決闘の規模はもっと小さく、決闘の場所も南の街中だったようです。にもかかわらず、一乗寺にはちゃんとその時の松の木と決闘の碑が残っていて、ここで宮本武蔵と吉岡道場との決闘があったと書かれているのです。これまた京都ならではの、さりげなくあざとい演出ですね。でもこの程度の演出は、新宿の人工の構造物群と比べると、笑って許せる範囲かも知れません。

ヴァーチャル世界が行き着いた先の新宿や、さりげなく(あざとく?)昔を保っているふりをしている京都とは違って、信州松本では常念岳をはじめとする北アルプスの雄姿に圧倒されます。これは人工的な構造物ではない、自然のありのままの姿です。特にこれから春にかけては空気が透き通り、毎日のように雄大な山々を見ることができるうれしい季節です。この風景を見る度に、ヴァーチャル世界に流されそうな自分を戒め、じっくりとライフワークを進めていくための勇気をもらえるような気がします。今回はちょっときれいにまとめてしまいましたが、京都御池や東京神楽坂の夜をフラフラと酔っぱらって歩きながら、やっぱり信州はいい所だとしみじみと思ったのでした。

2010年1月3日日曜日

2010年 寅年

2010年、明けましておめでとうございます。今年は寅年です。「寅」の本来の語源は、「螾」(いん:「動く」の意味)で、春が来て草木が生ずる状態を表しているそうです。その後、文字の簡略化が行われ、「螾」の虫編が除かれ「寅」だけが残ったため、動物の「とら」の名称を当てたそうです。つまり寅年の本来の意味は「春の息吹」であり、動物の寅とは無関係なのです。まぁ、すべて受け売りですが...

動物としての寅(虎)からは、中島敦の「山月記」(http://www.amazon.co.jp/李陵・山月記-新潮文庫-中島-敦/dp/4101077010)を連想しますね。李徴という才知あふれる男が、詩家として名を遺そうとするのですが、あまりに強すぎる自尊心や尊大な羞恥心のために、最後には一匹の人喰い虎に変身してしまうというお話でした。中・高校生の頃って、みんな過剰な自意識を持て余している時代ですので、わが身に置き換えこの作品を記憶している人も多いのではないでしょうか。当時から30年以上経った現在の僕の理解としては、「過剰な自尊心」を「健全な野心」に昇華させて、周囲と協調して努力することが重要という、教訓めいたお話だということです。うーん、あまり文学作品を読み込む力は進歩していないかも知れません。センター試験(当時は共通一次)で国語は悲惨な結果だったしなぁ...

いずれにしても2010年寅年、信州大学麻酔科は、「寅→虎→山月記→自意識過剰な孤軍奮闘→人喰い虎になる」のではなく、寅年本来の意味として、「寅→螾→春の息吹き→教室員が協力して新たな発展を遂げる」を目標にしたいと思います。まあ年始なので、小さくまとめてみました、パチパチパチ。

ということで、今年も1年、各人が新たな目標を持って頑張りましょう。因みに僕の目標の一つはJB-POT(周術期経食道エコー試験)のまずは受験(できれば合格)です。教室のJB-POTTerの人達、サポートを宜しくね!